2013年5月19日日曜日

12年前の今日に書いていたこと


2歳のとき

生まれて2年そこそこ。
まだ赤ちゃんの1歳と、
幼児の入り口にいる3歳の、
ちょうど真ん中にいる2歳は、
どんな風に生きているのだろうか?
彼らの世界には、
過去へのこだわりも未来への不安もなく、
今この瞬間だけを生きる純粋な美しさがある。
(ミーヨン写真展『2歳の瞬間』パンフより)

ピュアなものは心に迫るがリアルではない。
積み重ねられたものは心を傷つけるが救われない。
その隙間にある2歳の子供の顔で埋め尽くされた会場で
少し神がかった気持ちになった。

瞬間瞬間をすべてに生きる人間の顔は
あらゆる表情の原点を見ているかのように力があった。
これが生きていることのおおもとにある顔に違いないと思った。

全力で笑い
全力で泣き
全力でおびえ
全力で怒る

わずか2年の人生の中で、今起こっていることは間違いなく初体験のことばかりで
ひとつひとつに対して、人間は確かに表情を刻んでいく。
はじめて繰り出す表情の数々は嫉妬を覚えるほどに本気だった。
あんな風に生きているだろうか?
あんな顔ができるだろうか?

ずるいなあ、こいつら。
生きてるなあ。
惰性じゃないなあ。
本気だなあ。

子供と動物はずるいとよく言われる。
確かにずるい。
あんな顔は相当のことがないとできやしない。
心の底から感情を受け止める表情の数々。

いつまでもあの頃の、2歳の頃の表情ができるといい。
そんな風に生きることができるといい

2011年12月1日木曜日

2000年の12月の3日に書いたこと。

こんな話を書いていた。 まだブログもないころだ。
 何かを書きとめておくことは こういうことを思い出せるから楽しい。

 うんこを我慢する

うんこを我慢することがある。
まだ小学校のころから今もう20数年生きてこようとしている今まで
この恐怖は続いている。
おそらくこれからもずっと続くのだろう。

 この恐怖はちょっとした後悔からはじまる。
「どうしてあのとき、いっておかなかったのだろう」 
必ず前兆はあるのだ。
でも急いでいたり、 大丈夫だろうという目算があったりで、
ピットインせずにその場はやめてしまうのだ。 

そして、しばらくして、SOSが発信されて、思うのだ。
「どうしてあのとき、いっておかなかったのだろう」と。 

SOSが発信されると、頭の中で時間計算が行なわれる。
「この感じ、おそらくは2時間とみた」 
この計算が狂うことが多いのだが、
いつもいつも最初はこの計算のもとに 
「だから、あそこのトイレに行けば大丈夫」と
頭の中の都内トイレマップと相談して一人合点するのだ。 
案の定、その10分後にはセカンドステージに突入するのだが…。

セカンドステージは、目算を誤ったことを自覚する瞬間だ。
そういう時に限って、必ず電車とかバスとかどうしようもないところにいるものだ。
頭の中が加速する。あのトイレ、あのトイレ、あのトイレ…。

 そして、サードステージは
「はじめに目をつけたトイレには必ず人が入っている」状況だ。 
待てばいいのに、少し待つと「待ってられるか…」と諦めてしまう。 
これが、さらに状況を悪化させる。もう、脂汗状態に突入である。 

そして、フォースステージは、もう周りは見えなくなる。
なりふり構わず、思いついたトイレに直行する。
一点凝視、脂汗である。 心持、景色も歪んでくる。
蜃気楼のようだ、ああ、うんこしたい…。
そして、ギュッと肛門を引き締めながら、トイレのドアを開ける。

 あった。

 最終ステージ、ここからはコンマ何秒という世界になる。
 ズボンを降ろしながら、 ドアを閉め、 カバンを下ろして、 着席。
 発射。 
安心感から加速する肛門開放スピードと自分の動物的運動能力が
真正面から衝突する瞬間である。
 そして、深く深呼吸する。

 勝利の美酒に酔いしれる。

2011年4月7日木曜日

10年近く前に書いていたこと

10年前の4月10日
あのときはこんなことを書いていたのだ。

2001/04/10

河原の魔力

河原には魔力がある。

特に都会の川の河原には魔力がある。
その空間の裂け具合とかがぼくは好きだ。

立ち並ぶ住宅やビルの並びを切り裂いて進む
河原にあるサイクリングの道をゆく。
その上に広がる空にわずかな青さを感じる。
灰色の中にある青。

でも、もっとすごいのは夜だ。

夜には河原だけが黒く沈んでいる。
星だけがスキマに降る感じになっている。
そこには一瞬だけの世界がある。
河原の道を何も考えずにガーッといくと、
くさい言い方をすれば、
都会の光の中に走る道を脇目もふらずに
駆け抜ける感じに思えるのだ。

吸い込まれていくのは、
消えていく感覚に近い。

でも、この感覚を味わうことができる瞬間は
ごくわずかだ。
その条件は厳しい。
夜。
しかも寒くもなく暑くもない季節。
天気は晴れ。
そんな夜にだけはじめて、その空間が現れる。
あの河原に現れる。

河原には魔力がある。

2010年10月5日火曜日

きっと初演の方が…「農業少女/NODA MAP」@池袋東京芸術劇場

いつの話かって、もう3月の初旬の鑑賞。

書き留めるのにも限界があるから、どうにもメモにもひどい。

ああ、もったいない。

深津絵里だったなあ、やっぱりとか。

松尾さんのくだらないギャグが世界を覆い尽くすんだけど

松尾さんの笑いは結構、松尾さんの身体でしか、

もしくは大人計画の身体でしか表現できなくて、

切ないことになっていたりとか、感じたことを覚えている。

覚えているって、どうなんだ?

野田さんの戯曲を遊び尽くした形にはなっているんだけど

まあ、まるで話はごちゃごちゃになっている感じが

さらに増長されていて、ついていくのがやっとやっと。

ただでさえ、話が渦のようになりつつ、気づいたら

その真ん中に吸い込まれているのが気持ちいい野田もの。

細い線を走り抜けるには、いかんせん遊びが多すぎた。

女の子が、世の中の気づかぬうちに?(意図してかもしれないけど)

真ん中にいること、しょせんは聖母のもとに

みんなは集っているのかなあということ、

その女の子が農業という食、生活の中心を目指すこと、

時代は一周してこんなところに戻ってくるのかあと感じた。

にしても、都会に憧れても、そこに何もなく、

キレイな子に引き寄せられても、また何もない。

それじゃあ、オレの手の中にも、何も残らないのか?

ってことなのか?

2010年4月21日水曜日

ワンテーマ美術大横断「医学と芸術@森美術館」

うむむ、醍醐味だ。企画した人、気持ちいいだろうなあ。

「生命(いのち)と愛の未来を探る」というテーマで

古今東西のありとあらゆる生命に関するものが大集合。

薬のメーカーとして始まったウエルカム財団っていうところが

集めた様々な医学の進歩を示すものたちに、アートがからんでいく。

医学備品みたいなものが、まあいちいち面白い。

美しいかといえば微妙だけど、最先端の頭脳を使って

考えられた様々なものは、ある意味考え過ぎちゃっててグッとくる。

義足、義手は造形の極みだし(HONDAの最先端義足まで展示)

貞操帯なんかも徹底して操作性/装着性を考えた丸みがよい。

超巨大なふいごが人工呼吸器の役割を果たす(棺桶的ですらある)

こととか気づいた人はすごいと思うし。

ダヴィンチの肺とか心臓のデッサン、本当にすさまじい細密さで、

線にブレがなく、まっすぐと走っていくのは本物ならではの迫力。

わざわざイギリスの王室コレクションから上陸。

抜けると、骸骨が波をバックにたたずむ

円山応挙「波上白骨座禅図」が。やりたい放題。頭使わせる感じ。

手術は見せ物だった時代、シアターのような場所で解剖する様子を

描いた画がずらりと並んだのを見たあとに、

狩野一信「五百羅漢図 第59幅 神通」があり日本の神通力的な

ぼんやりした医学力を感じ、その先には、

デミアン・ハーストが妻の出産シーンを超リアルに描いた絵画が。

なんか血とか見えなくなったけど、その景色を写真とみまごうばかりの

絵画で見るという、考えちゃう人にはウハウハなコンセプト。

売れるわ、ハースト。あと、この人って普通に画が超うまい。

ジル・バルビエ「老人ホーム」というくだらないコントみたいな作品も。

歩行器使用のスーパーマン、立てないバッドマン、ぼけてガリガリの超人ハルク。

やりきることって大事なんだな。

老人の皮膚を持った、子どもがゲームボーイで遊んでいたりもする。

部屋の片隅で。パトリシア・ピッチニーニ作品。

すさまじい企画だなあと思ったのは、死の直前の顔と死の直後の顔を

写真で撮って並べた作品。ヴァルター・シェルスのもの。

死を悟った人たちのやわらかな表情と、そのつながりの中で感じる

死んだあとのやすらかな表情。生と死、その時間は切れているのか?

で、DNAの発見した人のなんとなくひらめいちゃったぞというメモも展示。

どうして、らせんだ!なんて思ったのか?本当にすごいことだ。

人間の飽くなき欲求は。果てしない。

ひたすらに頭を回転させて見る感じ。エクササイズとしてはよかった。

けど、これは美しいのか?

3Dということは「アバター」

とにかく最初は、2D時代の名作という名作を

サンプリングしてしまえということだと思った。

そして、それに気づき、ちゃんと実行し、当てた。

だって、映画史のベスト版のようなもので

切り取る画切り取る画、最強みたいな感じだから。

もはや、オリジナルとかにこだわらず、

いいものはいいじゃないか、みんなの知恵が

結集してればいいじゃないか。おそらくそんなテンション。

意識しているのかしていないのかは定かではないが

意識している方がよっぽど恐ろしく偉大だと思う。

すでに存在する名作クリップの数々が集まることで

そこに生み出されるハーモニーみたいなものが

すさまじいグルーブを生み出すことは

音楽では当たり前になりつつあったけど

文章とか映像だとまだまだオリジナル神話が根強い。

そうじゃないよ、と。いい画はいい画だし、みんな見たいのって

こういうことだよねという潔さ。

そこにひどくココロを打たれた。

話も特に、おお!斬新なんて一個も思わない感じなのに

映像体験として新鮮なのは本当に素晴らしいなあ。

いちいち手前のものをなめていくアングルが多いのは仕方ないか。

なにせ飛び出してくることなんかよりも奥行きが勝負だから

(そんなに画面に向かって何かが頻繁に飛び出してくるのなんか

シーンを考えるだけでも難しいと思う)

仕方なしそうなのだろう。うざいほどに手前を植物が通り過ぎていった。

2010年4月7日水曜日

大好物の光ものでした、やはり「あなたがであうとき/オラファー・エリアソン」@金沢21世紀美術館

そもそも大好きなオラファー・エリアソン。

他のどこにもまわらずに、ここのためだけに展示を作った。

らしい。

なんと贅沢な。行ってみて、なるほどと。

ひとつひとつの作品は既出のものがあるんだけど、

あの、どこ歩いてもよくて、どこにいるのかも分からなくなる

美術館だからこそ良さががあるのだなあ、この展示。

ふっと、空間に入ったときの出会いがランダムだからこそ

はっとさせられるという仕掛けの数々。

角をまがれば、絶景とか。

ドアをあければ、異空間とか。

そんな自然の状態でよくあるけれど、胸を打つ感覚を

ホワイトキューブで実現するのは、この建築があったから

なのだろう。

オラファー・エリアソンの説明を。以下に。


光、影、色、霧、風、波などの自然界に見られる
さまざまな要素によって特徴づけられるエリアソンの作品群は、
科学的な仕組みを問うものではなく、
現象を作り出す仕掛けは作品の中で明らかされています。
そのために、人々は却って「見る」という行為を純粋に楽しみ、
取り巻く環境の中に新しい発見や体験をする
機会とすることができるのです。
また、エリアソンはSANAAが設計・デザインした美術館を
建築的・機能的に深く読み解き、
金沢21世紀美術館を成り立たせる、
さまざまなファクターに大胆に挑みます。


気に入った作品の備忘録を。


《あなたが出会うとき》2009年

広い空間に、光がぱーっと開けてくる。

そして、さーっと閉じていく。

自分が見えてくる。現れる。

誰かの姿が照らし出される。また消える。

ゆっくりした動きだけれど、確実に何かに

コントロールされている感じを味わえる。



《ゆっくり動く色のある影》2009年

3つの色の影が重なり、離れ、影なのに独立した色を持つ。

これも、ひとりがいろいろな色を持つってことももちろんだし

同時にいる多くの人たちとともに楽しみ干渉しあうことで

世の中がどんどん多様に美しく花開いていくような気分に。

いちいち単純なのに、深く哲学を語れるのが、

この人の作品の面白いところなんだよなあ。

だから、もうべらべら気づいたことを喋り尽くしておく。


《見えないものが見えてくる》2009年

霧に満ちた部屋に、一筋の光がすーっと通る。

のだけれど、自然ではあり得ない形で、その光の線は

プツリと切れる。こういう非自然であることの不自然さを

ハッと意識させるのも、うまいところ。

単純に、ロスコのようなものが入らないよう、

透明な箱が置いてあって、そのため光の線が見えないんだけど

いやあ、美しく世界の仕組みをシャープにするのって

センスだなあと感心。


《動きが決める物のかたち》(まもなく)(いま)(それから)

ストロボでトロッとしたオイルような

プラスチック材料の噴水をちかちかすると

その瞬間だけうまれる彫刻のように見える。

超美形で、はかない、彫刻でありオブジェ。

見た事もない質感と量感。あれは軽いのか?重いのか?

つるつるしているようにもみえるけど

ぬるっとしているようにもみえるという謎の代物。

接することができる物体とは違う、物体を生み出すという

信じがたい離れ業だった。


《水の彩るあなたの水平線》2009年

宗教施設かのような作品だった。

暗い部屋。

バカでかい円形の部屋の真ん中に

バカでかい水盆。そのさざなみに反射して

虹色の光が部屋の壁にもうひとつの波を描く。

人の気配がするたびに、その波は大きく変動する。

人が自分の空間に入るたびに、

よくもわるくも、明るい色も暗い色も

同時にゆらゆらと反応する。まさに他者によって、

自分の世界は、変容するんだろう。

いやあ、すごい、本当にすごい、すさまじい。



あれこれと

感動した。

難しくないけど、深いなあ。

だから、すごい。

何より感性にくるもんなあ。

それにしても、相変わらず、光ものには

とことん弱いものだ。