そもそも大好きなオラファー・エリアソン。
他のどこにもまわらずに、ここのためだけに展示を作った。
らしい。
なんと贅沢な。行ってみて、なるほどと。
ひとつひとつの作品は既出のものがあるんだけど、
あの、どこ歩いてもよくて、どこにいるのかも分からなくなる
美術館だからこそ良さががあるのだなあ、この展示。
ふっと、空間に入ったときの出会いがランダムだからこそ
はっとさせられるという仕掛けの数々。
角をまがれば、絶景とか。
ドアをあければ、異空間とか。
そんな自然の状態でよくあるけれど、胸を打つ感覚を
ホワイトキューブで実現するのは、この建築があったから
なのだろう。
オラファー・エリアソンの説明を。以下に。
光、影、色、霧、風、波などの自然界に見られる
さまざまな要素によって特徴づけられるエリアソンの作品群は、
科学的な仕組みを問うものではなく、
現象を作り出す仕掛けは作品の中で明らかされています。
そのために、人々は却って「見る」という行為を純粋に楽しみ、
取り巻く環境の中に新しい発見や体験をする
機会とすることができるのです。
また、エリアソンはSANAAが設計・デザインした美術館を
建築的・機能的に深く読み解き、
金沢21世紀美術館を成り立たせる、
さまざまなファクターに大胆に挑みます。
気に入った作品の備忘録を。
《あなたが出会うとき》2009年
広い空間に、光がぱーっと開けてくる。
そして、さーっと閉じていく。
自分が見えてくる。現れる。
誰かの姿が照らし出される。また消える。
ゆっくりした動きだけれど、確実に何かに
コントロールされている感じを味わえる。
《ゆっくり動く色のある影》2009年
3つの色の影が重なり、離れ、影なのに独立した色を持つ。
これも、ひとりがいろいろな色を持つってことももちろんだし
同時にいる多くの人たちとともに楽しみ干渉しあうことで
世の中がどんどん多様に美しく花開いていくような気分に。
いちいち単純なのに、深く哲学を語れるのが、
この人の作品の面白いところなんだよなあ。
だから、もうべらべら気づいたことを喋り尽くしておく。
《見えないものが見えてくる》2009年
霧に満ちた部屋に、一筋の光がすーっと通る。
のだけれど、自然ではあり得ない形で、その光の線は
プツリと切れる。こういう非自然であることの不自然さを
ハッと意識させるのも、うまいところ。
単純に、ロスコのようなものが入らないよう、
透明な箱が置いてあって、そのため光の線が見えないんだけど
いやあ、美しく世界の仕組みをシャープにするのって
センスだなあと感心。
《動きが決める物のかたち》(まもなく)(いま)(それから)
ストロボでトロッとしたオイルような
プラスチック材料の噴水をちかちかすると
その瞬間だけうまれる彫刻のように見える。
超美形で、はかない、彫刻でありオブジェ。
見た事もない質感と量感。あれは軽いのか?重いのか?
つるつるしているようにもみえるけど
ぬるっとしているようにもみえるという謎の代物。
接することができる物体とは違う、物体を生み出すという
信じがたい離れ業だった。
《水の彩るあなたの水平線》2009年
宗教施設かのような作品だった。
暗い部屋。
バカでかい円形の部屋の真ん中に
バカでかい水盆。そのさざなみに反射して
虹色の光が部屋の壁にもうひとつの波を描く。
人の気配がするたびに、その波は大きく変動する。
人が自分の空間に入るたびに、
よくもわるくも、明るい色も暗い色も
同時にゆらゆらと反応する。まさに他者によって、
自分の世界は、変容するんだろう。
いやあ、すごい、本当にすごい、すさまじい。
あれこれと
感動した。
難しくないけど、深いなあ。
だから、すごい。
何より感性にくるもんなあ。
それにしても、相変わらず、光ものには
とことん弱いものだ。
2010年4月7日水曜日
2010年4月6日火曜日
本気でパンクで懐深い「歌舞伎座さよなら公演 十二月大歌舞伎」@歌舞伎座
番組は下記な感じ。まあ、すごいすごい。
出てくる人、出てくる人、半端な方がひとりもいない。
さすが、さよなら公演。ちゃんと全力だなあ。
時代的にも古いのから、最新まで取り揃えて、
歌舞伎がいかに幅広い歴史からエキスを吸って
生き延びているかを肌で感じさせてくれた演目だった。
一、操り三番叟(あやつりさんばそう)
三番叟 勘太郎
後見 松 也
千歳 鶴 松
翁 獅 童
サイレントコメディなうえに、まあ身体がよく動く。
関節とかグニャグニャパキパキと漫画のよう。
操り人形を演じるんだけど、パントマイムとかなくても
自前でこういう文化があるのって面白い。
操り人形のパントマイムやってみたら、よくない?って
思いつくあたりがすさまじい雑食性。
今回は、席がステージに近かったので、
脚にかかる加重とか床をつかむ指とか感じることができて
歌舞伎の身体性を改めて確認できた。
二、新版歌祭文
野崎村(のざきむら)
お光 福 助
お染 孝太郎
後家お常 秀 調
久作 彌十郎
久松 橋之助
よくできたワイドショー話で、農家の娘が好きな男と
一緒になれるとウキウキしていると、都会から超かわいい
姫がその男を追ってやってきちゃうという。
その農家の娘のきゃぴきゃぴした感じとかが
異常に偏見たっぷりにバカにしてて面白い。
うまかったなあ、ほんと、この日の役者さん。
セットもぐるぐる回って、最後なんか家の裏の
川の土手に変身して船に乗って去っていくという
スペクタクル。アイディア、アイディア、
驚くことならなんでもやってやろうという精神が
素晴らしい。
三、新古演劇十種の内 身替座禅(みがわりざぜん )
山蔭右京 勘三郎
太郎冠者 染五郎
侍女千枝 巳之助
侍女小枝 新 悟
奥方玉の井 三津五郎
こっちはコント。勘三郎ってほんと面白い。
声がそもそも面白いのと、リズムがくだらない。
なんかいちいちふざけているんだと思うんだけど、
ムダなことを加えて加えて、そこに溺れる面白さ。
でも、嫌みじゃないあたりが名優なんだろうなあ。
浮気して帰ってくる当たりの、喜ぶ男のダメな感じとか
もうジャストミートな様子で、楽しい。
四、大江戸りびんぐでっど(おおえどりびんぐでっど)
半助 染五郎
お葉 七之助
大工の辰 勘太郎
根岸肥前守 彌十郎
遣手お菊 萬次郎
丁兵衛 市 蔵
与兵衛 亀 蔵
佐平次 井之上隆志
紙屑屋久六 猿 弥
和尚実は死神 獅 童
石坂段右衛門 橋之助
女郎お染 扇 雀
女郎喜瀬川 福 助
四十郎 三津五郎
新吉 勘三郎
宮藤官九郎が書いた新作。江戸にゾンビが現れる。
というとんでもない話。しかもクサヤの汁を浴びると。
いやあ、歌舞伎書いても、まったくぶれないあたりが
需要と供給だなあ、発注する方もしやすいなあと思う。
上がりが思った通りになるなんて安心だもの。
そして、もう話も何もかもめちゃくちゃだけど
しっかり歌舞伎にしていく役者陣のものすごい
懐の深さ。伝統芸能の中でも足腰の強さ。
旬なものを食べて吐き出さずに自分自身を変容させつつ
自分の栄養にしてしまう。
ものすごいアレルギー反応はあっただろうからなあ。
ほとんどが特殊メイクをした(ゾンビメイク…)歌舞伎って
いやあ、いいものを見た。
とりあえず、出来というよりもスタンスに圧倒です。
歌舞伎というものの。
なんでも壊してみなきゃ分からないよねえ、
いけるかいけないかも。
出てくる人、出てくる人、半端な方がひとりもいない。
さすが、さよなら公演。ちゃんと全力だなあ。
時代的にも古いのから、最新まで取り揃えて、
歌舞伎がいかに幅広い歴史からエキスを吸って
生き延びているかを肌で感じさせてくれた演目だった。
一、操り三番叟(あやつりさんばそう)
三番叟 勘太郎
後見 松 也
千歳 鶴 松
翁 獅 童
サイレントコメディなうえに、まあ身体がよく動く。
関節とかグニャグニャパキパキと漫画のよう。
操り人形を演じるんだけど、パントマイムとかなくても
自前でこういう文化があるのって面白い。
操り人形のパントマイムやってみたら、よくない?って
思いつくあたりがすさまじい雑食性。
今回は、席がステージに近かったので、
脚にかかる加重とか床をつかむ指とか感じることができて
歌舞伎の身体性を改めて確認できた。
二、新版歌祭文
野崎村(のざきむら)
お光 福 助
お染 孝太郎
後家お常 秀 調
久作 彌十郎
久松 橋之助
よくできたワイドショー話で、農家の娘が好きな男と
一緒になれるとウキウキしていると、都会から超かわいい
姫がその男を追ってやってきちゃうという。
その農家の娘のきゃぴきゃぴした感じとかが
異常に偏見たっぷりにバカにしてて面白い。
うまかったなあ、ほんと、この日の役者さん。
セットもぐるぐる回って、最後なんか家の裏の
川の土手に変身して船に乗って去っていくという
スペクタクル。アイディア、アイディア、
驚くことならなんでもやってやろうという精神が
素晴らしい。
三、新古演劇十種の内 身替座禅(みがわりざぜん )
山蔭右京 勘三郎
太郎冠者 染五郎
侍女千枝 巳之助
侍女小枝 新 悟
奥方玉の井 三津五郎
こっちはコント。勘三郎ってほんと面白い。
声がそもそも面白いのと、リズムがくだらない。
なんかいちいちふざけているんだと思うんだけど、
ムダなことを加えて加えて、そこに溺れる面白さ。
でも、嫌みじゃないあたりが名優なんだろうなあ。
浮気して帰ってくる当たりの、喜ぶ男のダメな感じとか
もうジャストミートな様子で、楽しい。
四、大江戸りびんぐでっど(おおえどりびんぐでっど)
半助 染五郎
お葉 七之助
大工の辰 勘太郎
根岸肥前守 彌十郎
遣手お菊 萬次郎
丁兵衛 市 蔵
与兵衛 亀 蔵
佐平次 井之上隆志
紙屑屋久六 猿 弥
和尚実は死神 獅 童
石坂段右衛門 橋之助
女郎お染 扇 雀
女郎喜瀬川 福 助
四十郎 三津五郎
新吉 勘三郎
宮藤官九郎が書いた新作。江戸にゾンビが現れる。
というとんでもない話。しかもクサヤの汁を浴びると。
いやあ、歌舞伎書いても、まったくぶれないあたりが
需要と供給だなあ、発注する方もしやすいなあと思う。
上がりが思った通りになるなんて安心だもの。
そして、もう話も何もかもめちゃくちゃだけど
しっかり歌舞伎にしていく役者陣のものすごい
懐の深さ。伝統芸能の中でも足腰の強さ。
旬なものを食べて吐き出さずに自分自身を変容させつつ
自分の栄養にしてしまう。
ものすごいアレルギー反応はあっただろうからなあ。
ほとんどが特殊メイクをした(ゾンビメイク…)歌舞伎って
いやあ、いいものを見た。
とりあえず、出来というよりもスタンスに圧倒です。
歌舞伎というものの。
なんでも壊してみなきゃ分からないよねえ、
いけるかいけないかも。
2009年12月15日火曜日
ザ!総合芸術「アイーダ/ミラノ・スカラ座」@NHKホール
ちゃんとしたオペラはべらぼうに高いので
見たことがなかったが、見てみたらものすごかった。
唄の超人がぞろぞろ出てきて、
バカでかいセットが信じられん転換をみせ、
美音の生クラシックが鳴り響く。
こんな三種の神器がそろえば、心に響かないわけがない。
テレビでみるのと全然違うのなあ、やはり。
音圧というか音の重なりが違う。
ちゃんと悲しいシーンでは悲しい音が何層にもなり
時に、音は勇ましく、声は悲しく、セットは晴れやかなんていう
不思議な時もあり、それで気持ちがまたぐいっと動いたり。
敵どうしの姫と王子が恋に落ちるというベーシックな話なんだけど
初演はスエズ運河開通記念に作られたらしい。
そうか、すごいな。歴史に刻まれてた瞬間にあわせて
その地域をテーマにしたオペラがおろされるって。
エジプトとエチオピアの話で、エジプトファラオ的なセットに
もう百人くんだりの人間がのぼって、わんわん歌う。
しかも、その音の渦を、主役の声が突き抜けてくる。
はまったら、おそろしい、オペラの世界。
いくらあっても、足らないわ。
おっさん、おばさんが休憩時間にはホールに満ちていて
スーツ観客の山にも久々に遭遇した。金持ってるわ、日本人。
見たことがなかったが、見てみたらものすごかった。
唄の超人がぞろぞろ出てきて、
バカでかいセットが信じられん転換をみせ、
美音の生クラシックが鳴り響く。
こんな三種の神器がそろえば、心に響かないわけがない。
テレビでみるのと全然違うのなあ、やはり。
音圧というか音の重なりが違う。
ちゃんと悲しいシーンでは悲しい音が何層にもなり
時に、音は勇ましく、声は悲しく、セットは晴れやかなんていう
不思議な時もあり、それで気持ちがまたぐいっと動いたり。
敵どうしの姫と王子が恋に落ちるというベーシックな話なんだけど
初演はスエズ運河開通記念に作られたらしい。
そうか、すごいな。歴史に刻まれてた瞬間にあわせて
その地域をテーマにしたオペラがおろされるって。
エジプトとエチオピアの話で、エジプトファラオ的なセットに
もう百人くんだりの人間がのぼって、わんわん歌う。
しかも、その音の渦を、主役の声が突き抜けてくる。
はまったら、おそろしい、オペラの世界。
いくらあっても、足らないわ。
おっさん、おばさんが休憩時間にはホールに満ちていて
スーツ観客の山にも久々に遭遇した。金持ってるわ、日本人。
心の奥底に潜る「ザ・ダイバー/野田MAP」@東京芸術劇場小ホール
精神科医が殺人を犯したであろう女の気持ちの中に
どんどん潜っていく。女は多重人格でことあるたびに
あらゆる人格になって立ち上がるのだけれど、
まあ、いちいちドロドロと粘りつく。愛情と憎悪がからむ。
シーンは能やら源氏物語やら現在やらを次々にジャンプして
一見複雑だけど、そのおかげで女の気持ちがなにも
今という時代に特殊なことじゃない、
普遍的な強い気持ちなんだと思わせてくれる。
単純な流行とは違う、もっと人間なら誰でも
もってきたんだなあ、独占欲とこわくなる。
「ひとりの気持ちを自分のものにしたい」という
正妻と愛人の想いのやりとりが4人も子どもを
葬り去り、しかも、それが確実にひとりの人格を
壊しきるというリアル。
深く潜っていけばいくほど、見てはならないけれど
みなくてはならない、人の愛情の深淵がひろがって
気持ちにどーんともたれかかる。
何してもいいやという正義は
法律での正妻に認められているのか?
だけれども、その正義によって
自分の気持ちを持ち崩し、壊れていくその人自身の
かなしみとかわびしさ。
うーむ、深い。ダイバーだけに。
新しい生命とか、連綿と続いていく命とか
そういう人類が持つ生命力みたいなもので終わり
一見、救いありそうだけど、そんなこともないだろう。
人が壊れる恐怖を見事に大竹しのぶが演じきる。
どんどん潜っていく。女は多重人格でことあるたびに
あらゆる人格になって立ち上がるのだけれど、
まあ、いちいちドロドロと粘りつく。愛情と憎悪がからむ。
シーンは能やら源氏物語やら現在やらを次々にジャンプして
一見複雑だけど、そのおかげで女の気持ちがなにも
今という時代に特殊なことじゃない、
普遍的な強い気持ちなんだと思わせてくれる。
単純な流行とは違う、もっと人間なら誰でも
もってきたんだなあ、独占欲とこわくなる。
「ひとりの気持ちを自分のものにしたい」という
正妻と愛人の想いのやりとりが4人も子どもを
葬り去り、しかも、それが確実にひとりの人格を
壊しきるというリアル。
深く潜っていけばいくほど、見てはならないけれど
みなくてはならない、人の愛情の深淵がひろがって
気持ちにどーんともたれかかる。
何してもいいやという正義は
法律での正妻に認められているのか?
だけれども、その正義によって
自分の気持ちを持ち崩し、壊れていくその人自身の
かなしみとかわびしさ。
うーむ、深い。ダイバーだけに。
新しい生命とか、連綿と続いていく命とか
そういう人類が持つ生命力みたいなもので終わり
一見、救いありそうだけど、そんなこともないだろう。
人が壊れる恐怖を見事に大竹しのぶが演じきる。
ブームから生まれるブーム「1Q84/村上春樹」
売れに売れて、読んでいる人ばかりで、
それでもやっぱり気になって、読んでみたら、面白い。
ブームといってはなんだけど、新興宗教のあり方とか
人がバラバラと自分の人生だけに責任を持つ感じとか
殺すといくことが割とさらっと起こっていくとことか
財産を持つということが、世間の目に見えにくくなっているとことか
マッサージが重要なところとか
仕事と人生があまりにも残酷にリンクしていくところとか
その仕事が割と自分で選べてしまうところとか
ウソみたいな現実が、すぐ隣に音もせずあるところとか
それなりに小さな仕事にもプライドを持って生きているとことか
大きな権力を持つことが大きなあきらめにつながるとことか
天然な子が不思議なことを見通しているとことか
女子が世の中の軸を動かしているという裏のこととか
とかとか
ブームを読んで読んで、そこから確かに今の時代に
書かれた小説であるということをしっかりと感じることができて
で、ちゃんとブームを生んじゃうすごさ。
感心した。
それでもやっぱり気になって、読んでみたら、面白い。
ブームといってはなんだけど、新興宗教のあり方とか
人がバラバラと自分の人生だけに責任を持つ感じとか
殺すといくことが割とさらっと起こっていくとことか
財産を持つということが、世間の目に見えにくくなっているとことか
マッサージが重要なところとか
仕事と人生があまりにも残酷にリンクしていくところとか
その仕事が割と自分で選べてしまうところとか
ウソみたいな現実が、すぐ隣に音もせずあるところとか
それなりに小さな仕事にもプライドを持って生きているとことか
大きな権力を持つことが大きなあきらめにつながるとことか
天然な子が不思議なことを見通しているとことか
女子が世の中の軸を動かしているという裏のこととか
とかとか
ブームを読んで読んで、そこから確かに今の時代に
書かれた小説であるということをしっかりと感じることができて
で、ちゃんとブームを生んじゃうすごさ。
感心した。
2009年10月22日木曜日
本当に神様はいるぞ「護王神社/杉本博司」@直島
江戸時代から祀られている本村という集落の
神社が老朽化したため、杉本博司が設計。
なんかまだまだ白木で新しく、そこに神様?って
感じだったんだけど、いやいや、むしろだからこそ
神様の居場所としてありがたいのだ、と後で思う。
考えてみれば、伊勢神宮とかもいつもいつもフレッシュ。
古いものに神様があるという考え方もあれば、
神様を祀るからこそ、新しくてキレイでよいという
考え方もある。なんか切り立ての樹だから妙に生気があって、
ある意味生々しい。どろっとした妖気。
本殿と地下にある石室をつなぐガラス階段は、
外にいた神様がやすらぐために、石室に入ることが
出来るかのように浮かび上がる。
すごいなあ、ロマンだなあ。神話だなあ。
石室の石とかも、本当に力がある。まさにパワーストーン。
どっかから超巨大な石を運んできて、くりぬいたらしい。
神社の床下にある、そんな石室に、入れるという
ふとどきな企画なのだけれど、細い細いコンクリートトンネルを
抜けると、真っ暗な中に透明な階段を透けて漏れる外明かりが
石室をぼんやりと照らす。そこは神様の居場所。まさに。
なんか、たくさん、たくさん、願った。
これは叶うと思った、リアルに神様を感じた。
で、出るときに、再び驚き。さっきのトンネルが額縁になり
海だけが切り取られている。まさに、リアル海景。
それは、神様の生きた?時代とまったく変わらない景色。
人と切り離された、けがれない世界。
神秘体験をさせていただいた。すさまじい現代アート。
タブーとかないのな。それで体験できるのが本当によい。
神社が老朽化したため、杉本博司が設計。
なんかまだまだ白木で新しく、そこに神様?って
感じだったんだけど、いやいや、むしろだからこそ
神様の居場所としてありがたいのだ、と後で思う。
考えてみれば、伊勢神宮とかもいつもいつもフレッシュ。
古いものに神様があるという考え方もあれば、
神様を祀るからこそ、新しくてキレイでよいという
考え方もある。なんか切り立ての樹だから妙に生気があって、
ある意味生々しい。どろっとした妖気。
本殿と地下にある石室をつなぐガラス階段は、
外にいた神様がやすらぐために、石室に入ることが
出来るかのように浮かび上がる。
すごいなあ、ロマンだなあ。神話だなあ。
石室の石とかも、本当に力がある。まさにパワーストーン。
どっかから超巨大な石を運んできて、くりぬいたらしい。
神社の床下にある、そんな石室に、入れるという
ふとどきな企画なのだけれど、細い細いコンクリートトンネルを
抜けると、真っ暗な中に透明な階段を透けて漏れる外明かりが
石室をぼんやりと照らす。そこは神様の居場所。まさに。
なんか、たくさん、たくさん、願った。
これは叶うと思った、リアルに神様を感じた。
で、出るときに、再び驚き。さっきのトンネルが額縁になり
海だけが切り取られている。まさに、リアル海景。
それは、神様の生きた?時代とまったく変わらない景色。
人と切り離された、けがれない世界。
神秘体験をさせていただいた。すさまじい現代アート。
タブーとかないのな。それで体験できるのが本当によい。
2009年10月18日日曜日
人が住む気配に刻まれる時間「角屋/宮島達男」@直島
当日は豪雨。もう雨雨雨。ザーッと音がすごい。
街中でアート作品をみつけて入る直島。
ほんと突然に出てくるし、町並みに潜んでいる。
素晴らしい。
見つけた古民家に入ると、家の居間に暗い暗いプールが。
その水のなかに沈む、例の1〜9までのデジタルカウンター。
島民の人が、そのテンポをそれぞれに決めたらしい。
めちゃくちゃ早いものから、めちゃくちゃ遅いものまで。
宮島さんの作品って、すごいグッとくる時と
そうじゃない時が激しいんだけど、やっぱりなんとなく
時間軸を人間が分かりやすく感じる時に気持ちに入る。
なんかこの日は雨の音が妙に今の時間を際立たせていて
その今の時間と、今までに刻んできている歴史的な時間を感じた。
しみた。
あとは、たまに水面がゆらりと揺れるのね。意図せずに。
それが、また、人をくらりと翻弄するようで、
命をグラリと揺さぶるようで、普段は見えない時の流れを
意識することが出来た。
生活に潜ませるアート作品は、心に効く。
街中でアート作品をみつけて入る直島。
ほんと突然に出てくるし、町並みに潜んでいる。
素晴らしい。
見つけた古民家に入ると、家の居間に暗い暗いプールが。
その水のなかに沈む、例の1〜9までのデジタルカウンター。
島民の人が、そのテンポをそれぞれに決めたらしい。
めちゃくちゃ早いものから、めちゃくちゃ遅いものまで。
宮島さんの作品って、すごいグッとくる時と
そうじゃない時が激しいんだけど、やっぱりなんとなく
時間軸を人間が分かりやすく感じる時に気持ちに入る。
なんかこの日は雨の音が妙に今の時間を際立たせていて
その今の時間と、今までに刻んできている歴史的な時間を感じた。
しみた。
あとは、たまに水面がゆらりと揺れるのね。意図せずに。
それが、また、人をくらりと翻弄するようで、
命をグラリと揺さぶるようで、普段は見えない時の流れを
意識することが出来た。
生活に潜ませるアート作品は、心に効く。
2009年10月6日火曜日
地中だから光を感じる「地中美術館」@直島
まったく建物の姿が見えない地中美術館。
中に入っていくと、広がる安藤忠雄ゾーン。
自然の中にある、この人の建築は本当に美しい。
やっぱり、コンクリートの壁の向こうにあるものは
断然の自然であるからこそ、あのつるつるコンクリートが
映えるのだといつもいつも思う。東京のは嫌い。
そして、ぐるぐると回る回廊や、斜めに傾いた壁、
自分の目線の部分だけが切り取られた壁など、
様々な形で自分の感覚が日常から剥ぎ取られていく。
そして、なんだか自分の感性がリフレッシュした先に
美術作品が。暗い闇の先に、光が冴える作家のわずかばかりの
作品が贅沢に展示。どれも身体まるごと浸る形のもの。
クロード・モネの睡蓮は、白い壁と白いタイルに囲まれた
真っ白な部屋に掲げられ、絵からあふれ出す色を体感できる。
絵のふちが空間に溶け出して、自分がそこにぐいっと吸い込まれる
不思議な気持ち。空気そのものが、絵に支配されていく。
それから、ジェームス・タレル。オープン・スカイは相変わらず
見たことあるはずの空の青を、まったく見たこともない澄んだ青に
変えてくれる。
もうひとつのオープンフィールドは、光の中に身体を沈めていく
ような作品で、夕焼けのような真っ赤な光に、突っ込んでいく、
自分の身体もこんな光の粒粒で出来ていて、溶け込んで気持ちがいい
そんな未知の実体験が出来た。
なにより、写真とまったく違って、行ってよかったと思ったのは
ウオルター・デ・マリア。バカデカイ黒い玉のある巨大な部屋の
周囲には27体の金箔の塗られた彫刻が整然と並んでいる。
そして、空が抜けている。空の光は刻々と変わり、玉に映る金色も
空色も一時も止まっていない。
そして、全体が大きな階段で出来ている。登ったり下ったり。
座ったり、立ったり。時間の流れをひしひしと自分の中で
くっきりと感じることのできる神々しい皮膚感覚。
あんまり聖的なものって感じないんだけど、もうちょっと泣きそうだった。
神様、いるなあと思った。
あとは、この今という時間は、昔とも未来ともつながっているなあと
センチメンタルな気持ちになった。
地中から出ると、そこにあったのは水平線だった。
また、これが、時間を感じる、
昔昔の地下から今、この瞬間が過ぎる地表に出たのに、
昔から変わらない水平線が見えるっていうあたりのロマン。
すばらしいです。
中に入っていくと、広がる安藤忠雄ゾーン。
自然の中にある、この人の建築は本当に美しい。
やっぱり、コンクリートの壁の向こうにあるものは
断然の自然であるからこそ、あのつるつるコンクリートが
映えるのだといつもいつも思う。東京のは嫌い。
そして、ぐるぐると回る回廊や、斜めに傾いた壁、
自分の目線の部分だけが切り取られた壁など、
様々な形で自分の感覚が日常から剥ぎ取られていく。
そして、なんだか自分の感性がリフレッシュした先に
美術作品が。暗い闇の先に、光が冴える作家のわずかばかりの
作品が贅沢に展示。どれも身体まるごと浸る形のもの。
クロード・モネの睡蓮は、白い壁と白いタイルに囲まれた
真っ白な部屋に掲げられ、絵からあふれ出す色を体感できる。
絵のふちが空間に溶け出して、自分がそこにぐいっと吸い込まれる
不思議な気持ち。空気そのものが、絵に支配されていく。
それから、ジェームス・タレル。オープン・スカイは相変わらず
見たことあるはずの空の青を、まったく見たこともない澄んだ青に
変えてくれる。
もうひとつのオープンフィールドは、光の中に身体を沈めていく
ような作品で、夕焼けのような真っ赤な光に、突っ込んでいく、
自分の身体もこんな光の粒粒で出来ていて、溶け込んで気持ちがいい
そんな未知の実体験が出来た。
なにより、写真とまったく違って、行ってよかったと思ったのは
ウオルター・デ・マリア。バカデカイ黒い玉のある巨大な部屋の
周囲には27体の金箔の塗られた彫刻が整然と並んでいる。
そして、空が抜けている。空の光は刻々と変わり、玉に映る金色も
空色も一時も止まっていない。
そして、全体が大きな階段で出来ている。登ったり下ったり。
座ったり、立ったり。時間の流れをひしひしと自分の中で
くっきりと感じることのできる神々しい皮膚感覚。
あんまり聖的なものって感じないんだけど、もうちょっと泣きそうだった。
神様、いるなあと思った。
あとは、この今という時間は、昔とも未来ともつながっているなあと
センチメンタルな気持ちになった。
地中から出ると、そこにあったのは水平線だった。
また、これが、時間を感じる、
昔昔の地下から今、この瞬間が過ぎる地表に出たのに、
昔から変わらない水平線が見えるっていうあたりのロマン。
すばらしいです。
分からないし想像できないし「来来来来来来/劇団本谷有希子」@本多劇場
本当に女子というものがそうかは分からないけれど
少なくとも身近にいる女子たちが感じている
世の中への不条理が、濃縮されて、搾り出されて、
どろどろと溶け出しているような舞台だった。
あんな情念は、わからないし、想像もできない。
自分のあり方を見失っている人々が、東京から離れた
田舎に集団で生活をしていて、もうかなりの虐げられた
生活をしているんだけれど、それでも自分のあり方とか
居場所みたいなものを失わないならば、そのことを
幸せに思えてしまう、思わないと壊れてしまう、
そんな女子たちがごっそり出てくる。次から次へと出てくる。
一番まともそうなやつでさえ、平気でうんこを手で掃除したりする。
人を狂ったほどに、ののしったりする。ガンガン叩いて虐待したりする。
だんなの暴力に笑いながら耐えていたりする。
みんなの想いは、ひとつに感じる。
わたしはここにいてもいい。
それを認めてもらえれば、どんなに生活が悲惨でもなんだか耐えられる。
女子の思い込み力というか、なんというか。
男子はあまりそういうのはない。特に今の男子は。
だから、もしかすると、軟弱なのかもしれない。
意思というか、思いが現実を凌駕していかない、ほどほどだから。
まあ、想像つく範囲でしか認められない。生活できない。
見ていて、悲惨だな、女子の世界とも思ったが、
これがあるから今は女子の方が骨があり、前に進んでいくパワーに
満ちているのだろうと思った。
少なくとも身近にいる女子たちが感じている
世の中への不条理が、濃縮されて、搾り出されて、
どろどろと溶け出しているような舞台だった。
あんな情念は、わからないし、想像もできない。
自分のあり方を見失っている人々が、東京から離れた
田舎に集団で生活をしていて、もうかなりの虐げられた
生活をしているんだけれど、それでも自分のあり方とか
居場所みたいなものを失わないならば、そのことを
幸せに思えてしまう、思わないと壊れてしまう、
そんな女子たちがごっそり出てくる。次から次へと出てくる。
一番まともそうなやつでさえ、平気でうんこを手で掃除したりする。
人を狂ったほどに、ののしったりする。ガンガン叩いて虐待したりする。
だんなの暴力に笑いながら耐えていたりする。
みんなの想いは、ひとつに感じる。
わたしはここにいてもいい。
それを認めてもらえれば、どんなに生活が悲惨でもなんだか耐えられる。
女子の思い込み力というか、なんというか。
男子はあまりそういうのはない。特に今の男子は。
だから、もしかすると、軟弱なのかもしれない。
意思というか、思いが現実を凌駕していかない、ほどほどだから。
まあ、想像つく範囲でしか認められない。生活できない。
見ていて、悲惨だな、女子の世界とも思ったが、
これがあるから今は女子の方が骨があり、前に進んでいくパワーに
満ちているのだろうと思った。
2009年9月16日水曜日
エロイ話から深い話のギャップ「愛を読む人」
なんかPRはエロイ話っぽい押しだった。
頭よわい30代の女性がインテリ10代の男性に
セックスを教える代償に毎晩毎晩、本を読んでもらうという。
なんだ、その千夜一夜。
まあ、ここまでの設定を聞けば、もう直球エロ映画。
と思って身構えてみていたら、とんでもなく深い話に
なっていく。そんなのありというほどに。
PRは間違ったんじゃないか?
これは、感動涙のストーリーで、たぶん日本人は
そっちの方が好きなんだぞ。たぶん。
後半に入って、時代に巻き込まれる2人の話になり
女性の方はホロコーストの実行犯として戦後つかまって…
という信じられない展開に。ええ!大河ロマン?
で、もともと字が読めなかった彼女が、
かつて彼に聞いた話の本を、必死に繰りながら
文字を覚えて、最後の最後にその文字でラブレターを
書くという、壮絶な50年史。
だった気がする。そういう感じで心に刻まれた。
いやあ、振り幅ってすごい。なんか複雑な気持ちになった。
泣いていいのか?なんなのか?
頭よわい30代の女性がインテリ10代の男性に
セックスを教える代償に毎晩毎晩、本を読んでもらうという。
なんだ、その千夜一夜。
まあ、ここまでの設定を聞けば、もう直球エロ映画。
と思って身構えてみていたら、とんでもなく深い話に
なっていく。そんなのありというほどに。
PRは間違ったんじゃないか?
これは、感動涙のストーリーで、たぶん日本人は
そっちの方が好きなんだぞ。たぶん。
後半に入って、時代に巻き込まれる2人の話になり
女性の方はホロコーストの実行犯として戦後つかまって…
という信じられない展開に。ええ!大河ロマン?
で、もともと字が読めなかった彼女が、
かつて彼に聞いた話の本を、必死に繰りながら
文字を覚えて、最後の最後にその文字でラブレターを
書くという、壮絶な50年史。
だった気がする。そういう感じで心に刻まれた。
いやあ、振り幅ってすごい。なんか複雑な気持ちになった。
泣いていいのか?なんなのか?
2009年7月26日日曜日
超すげえコントでアート「寛容のオルギア/ヤン・ファーブル」@彩の国さいたま芸術劇場
いやあ、すごかった。しびれた。感動した。
今の消費社会ってすごいねって話で、なんでもかんでも
おもしろがっちゃって、本当に僕らは大丈夫なのか?って
ゲラゲラ笑いながら考えて、もはや崩れてしまった
いろんな意味でのバランスをどうやって取り戻すのか?
はたまた、もう取り戻すことなんて出来ないのか?
って、またそれはそれで滑稽で・・・。
妊婦がショッピングカートに乗って洗剤を産んだり
キリストを売り出すためのミュージシャン化マネジメントとか
みんなで何回オナニーできるか大会とか
まずはファックって言って、文句をいってみようとか
そんなどうしようもないシーンなのに、
絶妙に美しく、なぜだか心にしみいるのね。すごい。
笑いってすごかったと、今までのヤン・ファーブルの
心に入ってこなさ加減を思うと、隔世の感。
欲望にひたすら飲まれ続ける毎日のなかで
テレビっていうハコについて、ヤン・ファーブルがいっていて
あれは、見てもらうためなら、タブーなく欲を利用し尽くすから
恐ろしいみたいな話をしていて、確かにと思う。
自分も、ただただ、見てもらうことを考える。
そして、刺激に麻痺していく。そんな側面がある。
麻痺した先に何があるのか?
まだ見て見たいという耐えない欲求がある。
今の消費社会ってすごいねって話で、なんでもかんでも
おもしろがっちゃって、本当に僕らは大丈夫なのか?って
ゲラゲラ笑いながら考えて、もはや崩れてしまった
いろんな意味でのバランスをどうやって取り戻すのか?
はたまた、もう取り戻すことなんて出来ないのか?
って、またそれはそれで滑稽で・・・。
妊婦がショッピングカートに乗って洗剤を産んだり
キリストを売り出すためのミュージシャン化マネジメントとか
みんなで何回オナニーできるか大会とか
まずはファックって言って、文句をいってみようとか
そんなどうしようもないシーンなのに、
絶妙に美しく、なぜだか心にしみいるのね。すごい。
笑いってすごかったと、今までのヤン・ファーブルの
心に入ってこなさ加減を思うと、隔世の感。
欲望にひたすら飲まれ続ける毎日のなかで
テレビっていうハコについて、ヤン・ファーブルがいっていて
あれは、見てもらうためなら、タブーなく欲を利用し尽くすから
恐ろしいみたいな話をしていて、確かにと思う。
自分も、ただただ、見てもらうことを考える。
そして、刺激に麻痺していく。そんな側面がある。
麻痺した先に何があるのか?
まだ見て見たいという耐えない欲求がある。
2009年7月9日木曜日
巨大一点もの「流れる水/塩田千春」@発電所美術館
その昔、水力発電所だった場所を美術館に変えた
とんでもなく豪華な空間が富山にあって、
そこで塩田千春さんがインスタレーションをやるという
またまた期待がふくらむ、キャスティング。
他には常設も何もないんだけど、とにかく行ってみた。
すごかった。
何せ、この発電所美術館が持つ磁場がすごい。
もはやスケール感が日本ではない。なんかちまちましてない。
せこくない。どーんとしてる。
だから、訪れた方も、ただただゆったりしたキモチになれる。
ヨーロッパみたい、富山なのに。
河岸段丘っていう地理で習った懐かしい地形を利用した
水力発電所の内部空間がまるごと美術館。
ものすごい天井高のところに、吊られ、ひしめいている、
病院のベッド。「命の水」というテーマで作られた作品は、
そのベッドでつくられた川にもみえるオブジェに、
大量の水がジャージャーと降り注ぐ。
そのザーという音が無機質な空間に響き渡って、
心の中をざわつかせる。
命の源の音でもあるし、
不安になったときに聞く音でもあるし、
ひんやりと落ち着く音でもある。
オブジェにはねる水、つたう水、落ちる水、
すべてが血のようにも見えて、
命が連綿とつながって、時間をつむいでいく様。
キレイにはまるインスタレーションって滅多にみないんだけど
ここのはすごかった。いやあ、すさまじかった。
何も観光地のような場はないけれど
それに喫茶店とかも、なんかよい。
豊かにゆっくりと静かに落ち着きを取り戻せる、
そんな空間。
ただ、窓が開いている。風が吹き抜ける。
ゆっくりと陽が傾く、時間を感じる。
そういう感覚も大事じゃないのかと思う。
とんでもなく豪華な空間が富山にあって、
そこで塩田千春さんがインスタレーションをやるという
またまた期待がふくらむ、キャスティング。
他には常設も何もないんだけど、とにかく行ってみた。
すごかった。
何せ、この発電所美術館が持つ磁場がすごい。
もはやスケール感が日本ではない。なんかちまちましてない。
せこくない。どーんとしてる。
だから、訪れた方も、ただただゆったりしたキモチになれる。
ヨーロッパみたい、富山なのに。
河岸段丘っていう地理で習った懐かしい地形を利用した
水力発電所の内部空間がまるごと美術館。
ものすごい天井高のところに、吊られ、ひしめいている、
病院のベッド。「命の水」というテーマで作られた作品は、
そのベッドでつくられた川にもみえるオブジェに、
大量の水がジャージャーと降り注ぐ。
そのザーという音が無機質な空間に響き渡って、
心の中をざわつかせる。
命の源の音でもあるし、
不安になったときに聞く音でもあるし、
ひんやりと落ち着く音でもある。
オブジェにはねる水、つたう水、落ちる水、
すべてが血のようにも見えて、
命が連綿とつながって、時間をつむいでいく様。
キレイにはまるインスタレーションって滅多にみないんだけど
ここのはすごかった。いやあ、すさまじかった。
何も観光地のような場はないけれど
それに喫茶店とかも、なんかよい。
豊かにゆっくりと静かに落ち着きを取り戻せる、
そんな空間。
ただ、窓が開いている。風が吹き抜ける。
ゆっくりと陽が傾く、時間を感じる。
そういう感覚も大事じゃないのかと思う。
感覚が死んでいるのか?「ダイアローグ・イン・ザ・ダーク」@青山
こんなに人間の感覚が麻痺しているのか?
もしくは、
こんなに人間の感覚というのは可能性に満ちているのか?
日常というものが、なにひとつ確かなことなどないことを
まざまざと感じさせてくれる出し物だった。
真っ暗な中を10人前後のパーティーで進んでいく。
それをアテンドするのは、視覚障害者の人。
驚くことに、彼らの真っ闇を動くスピードは半端ない。
ワープしたみたいに空間のあちこちに瞬間移動する。
というよりは、自分たちがまったく動けなくなる。
もう前後左右はもちろん、上下もあやしくなって
空間感覚というものが粉みじんに破壊される。
部屋のひろさもひろがりも失われる。
そんな100%まっくらな空間の中に
様々なテーマの世界がつくられている。
森を行き、川を行き、田舎の家をたずね、
バーで飲み物さえいただける。
そこで触った木の葉や幹の様子は、まったく別物。
生きていると感じる葉脈のもっこり感。
守っていく意志を感じる幹表面のごりごり感。
足の裏が生き返る不思議な感覚。歩くということは
地面と接することで、そこには楽しみがあると知る瞬間。
水とかゆらぐ音とかいいよねえとかいうけど
心底音だけ聞く体験すると、複雑に音がからみあっている。
ブランコとか乗ってみると、ちょっと無重力体験みたいだし、
家にある様々な電化製品も触りながら当てていくと
いかに機能に特化していて、しかも自然の中には
ありえないものを自分たちが作り出しているかがわかる。
なにせ、かたくて、冷たい。
石とかは不思議とちょっとあったかい感じ、残ってる。
プラスチックとは、ぜんぜん違うんだよねえ。
飲み物とか飲んでみると、身体に入っていく、
口の中で味がしみわたっていく感じって、
まさに全身で味わうみたいな生き返る雰囲気。
それにしてもすごい体験だった。
考えて形にした人、すごいわ!このイベント。
さらに、社会的なアプローチもよろしくて、
できるだけ恒久的に行うことで、視覚障害者の
安定的な雇用も目指しているらしい。
しかも、セカンドベストな職ではなくて、
みんながやりたがる誇りを持った仕事を作りだす
という。
うーん。いい企画だ。
もしくは、
こんなに人間の感覚というのは可能性に満ちているのか?
日常というものが、なにひとつ確かなことなどないことを
まざまざと感じさせてくれる出し物だった。
真っ暗な中を10人前後のパーティーで進んでいく。
それをアテンドするのは、視覚障害者の人。
驚くことに、彼らの真っ闇を動くスピードは半端ない。
ワープしたみたいに空間のあちこちに瞬間移動する。
というよりは、自分たちがまったく動けなくなる。
もう前後左右はもちろん、上下もあやしくなって
空間感覚というものが粉みじんに破壊される。
部屋のひろさもひろがりも失われる。
そんな100%まっくらな空間の中に
様々なテーマの世界がつくられている。
森を行き、川を行き、田舎の家をたずね、
バーで飲み物さえいただける。
そこで触った木の葉や幹の様子は、まったく別物。
生きていると感じる葉脈のもっこり感。
守っていく意志を感じる幹表面のごりごり感。
足の裏が生き返る不思議な感覚。歩くということは
地面と接することで、そこには楽しみがあると知る瞬間。
水とかゆらぐ音とかいいよねえとかいうけど
心底音だけ聞く体験すると、複雑に音がからみあっている。
ブランコとか乗ってみると、ちょっと無重力体験みたいだし、
家にある様々な電化製品も触りながら当てていくと
いかに機能に特化していて、しかも自然の中には
ありえないものを自分たちが作り出しているかがわかる。
なにせ、かたくて、冷たい。
石とかは不思議とちょっとあったかい感じ、残ってる。
プラスチックとは、ぜんぜん違うんだよねえ。
飲み物とか飲んでみると、身体に入っていく、
口の中で味がしみわたっていく感じって、
まさに全身で味わうみたいな生き返る雰囲気。
それにしてもすごい体験だった。
考えて形にした人、すごいわ!このイベント。
さらに、社会的なアプローチもよろしくて、
できるだけ恒久的に行うことで、視覚障害者の
安定的な雇用も目指しているらしい。
しかも、セカンドベストな職ではなくて、
みんながやりたがる誇りを持った仕事を作りだす
という。
うーん。いい企画だ。
2009年6月19日金曜日
神がかり榮倉奈々「余命1カ月の花嫁」
もともと、かなり好きなんだけど、榮倉奈々。
にしても、まあすごい。神がかり。
棒読みなとこもあるんだけど、そこすら、
今の若い子ってこういうしゃべりの子いるなあと
思わせてしまうなりきり具合。
目線の揺らぎ方とかふと立ち止まる瞬間とかの
按配がほんとうに絶妙で、順撮りにしたらしい現場の
作戦がびたりとはまった見事な若者おお化けムービー。
たまにあるんだよなあ、こういうポテンシャルを全部
使い切った感じに仕上がる、若者キャスト映画。
中身はドキュメンタリーでもおなじみで
タイトルもそのものずばりなので、まあ号泣。
よく泣いた。顔洗えるくらい泣いた。
もう榮倉奈々が笑うだけで泣けてくるし、
柄本明がケーキ食べてるだけで涙がどばっと出るし、
瑛太とふたりで自転車乗ってたりするだけで
切なくておいおい泣いた。
ここからは記憶メモ。
切った手術あとを確認するシーンも
将来のお嫁さんに悪いよというシーンも
そのあと、ようやく怖いと泣けてしまうシーンも
沖縄で乳がんの手術痕を瑛太に見せるシーンも
ホームビデオにピースするシーンも
ただただただただ涙。
ベタに浸って泣く夜もよい。それでよい。
ただただ泣いてそれでよい。
ひそかに流行るピースサイン。
日常でもこそこそと繰り出している。
そして、明日が来るならを聞くだけで条件反射で
泣ける自分に、おめでたいと感じる。
でも、それでいい。
にしても、まあすごい。神がかり。
棒読みなとこもあるんだけど、そこすら、
今の若い子ってこういうしゃべりの子いるなあと
思わせてしまうなりきり具合。
目線の揺らぎ方とかふと立ち止まる瞬間とかの
按配がほんとうに絶妙で、順撮りにしたらしい現場の
作戦がびたりとはまった見事な若者おお化けムービー。
たまにあるんだよなあ、こういうポテンシャルを全部
使い切った感じに仕上がる、若者キャスト映画。
中身はドキュメンタリーでもおなじみで
タイトルもそのものずばりなので、まあ号泣。
よく泣いた。顔洗えるくらい泣いた。
もう榮倉奈々が笑うだけで泣けてくるし、
柄本明がケーキ食べてるだけで涙がどばっと出るし、
瑛太とふたりで自転車乗ってたりするだけで
切なくておいおい泣いた。
ここからは記憶メモ。
切った手術あとを確認するシーンも
将来のお嫁さんに悪いよというシーンも
そのあと、ようやく怖いと泣けてしまうシーンも
沖縄で乳がんの手術痕を瑛太に見せるシーンも
ホームビデオにピースするシーンも
ただただただただ涙。
ベタに浸って泣く夜もよい。それでよい。
ただただ泣いてそれでよい。
ひそかに流行るピースサイン。
日常でもこそこそと繰り出している。
そして、明日が来るならを聞くだけで条件反射で
泣ける自分に、おめでたいと感じる。
でも、それでいい。
2009年5月29日金曜日
40声のモテット「ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラー」@メゾン・エルメス
ずらりと並ぶ40個のスピーカー。
そこから流れる1573年に作られたトマス・タリスの
「我、汝の他に望みなし」。
それをつつむ、メゾン・エルメスのガラスボックス。
まあ、完璧。しかも、東京銀座という地場。さらに良。
たぶん、西洋のどこで見るよりも、よい。
場所が明確でない、普通はそんな聖歌など流れない場所に、
にせものの人間に模したスピーカーが尊い歌を、朗々と歌う。
しかも、ガラスからこぼれる光に、その声が見事に溶け合って
場所感とか時代感を一挙に飛び越える不思議体験だった。
40のスピーカーは、それぞれがひとりひとりのパートを
当てはめられていて、時折斉唱になったり、突然ハモッたり、
衣擦れの音だけになったりして、合唱の輪の中で体験した、
小中学校の気分の再現のようだなあとか一瞬思った。
のだけれど。
大間違い。そんなもんではない。
人間じゃないスピーカーが勝手にワーワー歌いはじめ
黙り、ボリュームをあげたりとかいうことがあると、
なんか神様に操られているような神々しい時間が
訪れるから、めったにない感覚だった。
なんだろう?すごく生命に囲まれているようでもあり、
一方、死体に抱かれているようでもあり、聖俗乱れて、
本当に聖地のようだった。
いやあ、音がまわる、ライトボックスはたまらない。
好きなんだなあ。
そこから流れる1573年に作られたトマス・タリスの
「我、汝の他に望みなし」。
それをつつむ、メゾン・エルメスのガラスボックス。
まあ、完璧。しかも、東京銀座という地場。さらに良。
たぶん、西洋のどこで見るよりも、よい。
場所が明確でない、普通はそんな聖歌など流れない場所に、
にせものの人間に模したスピーカーが尊い歌を、朗々と歌う。
しかも、ガラスからこぼれる光に、その声が見事に溶け合って
場所感とか時代感を一挙に飛び越える不思議体験だった。
40のスピーカーは、それぞれがひとりひとりのパートを
当てはめられていて、時折斉唱になったり、突然ハモッたり、
衣擦れの音だけになったりして、合唱の輪の中で体験した、
小中学校の気分の再現のようだなあとか一瞬思った。
のだけれど。
大間違い。そんなもんではない。
人間じゃないスピーカーが勝手にワーワー歌いはじめ
黙り、ボリュームをあげたりとかいうことがあると、
なんか神様に操られているような神々しい時間が
訪れるから、めったにない感覚だった。
なんだろう?すごく生命に囲まれているようでもあり、
一方、死体に抱かれているようでもあり、聖俗乱れて、
本当に聖地のようだった。
いやあ、音がまわる、ライトボックスはたまらない。
好きなんだなあ。
2009年5月9日土曜日
浸って沈み込むこと「マーク・ロスコ展」@川村記念美術館
「シーグラム絵画」と呼ばれる本来はひとつのレストラン空間に
飾られるはずだった壁画が、世界中から集められて一度に15枚を
見る事ができるという貴重な機会。
といっても、それほどマーク・ロスコがっつりはまったことがなく
ありがたみの実感は少ないんだけど、とにかく行ってみて、
感じてみようと決めた。
とにかくバカでかい赤っぽい、紫っぽい画が空間に配置されている。
「瞑想する絵画」というように、その空間に入ったところで、
さして気持ちがぐらつかない。うーむ。
でも、瞑想しなればと、結構長い時間いると、くるわくるわ。
さざ波のように自然の色が見えてくる。
本当にレストランに置いてあって、フルコースなんか食べたら
ちょっと感動する空間になったかもしれない。
夕日でもあり、朝日でもあり、血の色でもあり、
岩石の色でもある。ちょうどエアーズロックとかの真っ赤に染まる
感動的な瞬間にも似た激情も秘められている。
目の前にひろがる空間がどこまでも抜けていく
静かな静かな音のない景色の感動はなかなか味わえない。
やはり、セットで飾られるべきものが集まったときには
なんか計り知れない磁場を生み出したりするものだ。
海山十題のときも、伊藤若冲のときも思った。
そういうの好きだというのもある。
画家が考え抜いたプランに浸るのは、時間がかかるが、
すべてがパズルのように動き始めたときには
とんでもない感情の揺さぶりが隠されているケースが多いなあ。
それにしても、川村。遠いけど、とんでもなく豊かな建物。
常設展もすさまじいラインアップ。居心地よし。
飾られるはずだった壁画が、世界中から集められて一度に15枚を
見る事ができるという貴重な機会。
といっても、それほどマーク・ロスコがっつりはまったことがなく
ありがたみの実感は少ないんだけど、とにかく行ってみて、
感じてみようと決めた。
とにかくバカでかい赤っぽい、紫っぽい画が空間に配置されている。
「瞑想する絵画」というように、その空間に入ったところで、
さして気持ちがぐらつかない。うーむ。
でも、瞑想しなればと、結構長い時間いると、くるわくるわ。
さざ波のように自然の色が見えてくる。
本当にレストランに置いてあって、フルコースなんか食べたら
ちょっと感動する空間になったかもしれない。
夕日でもあり、朝日でもあり、血の色でもあり、
岩石の色でもある。ちょうどエアーズロックとかの真っ赤に染まる
感動的な瞬間にも似た激情も秘められている。
目の前にひろがる空間がどこまでも抜けていく
静かな静かな音のない景色の感動はなかなか味わえない。
やはり、セットで飾られるべきものが集まったときには
なんか計り知れない磁場を生み出したりするものだ。
海山十題のときも、伊藤若冲のときも思った。
そういうの好きだというのもある。
画家が考え抜いたプランに浸るのは、時間がかかるが、
すべてがパズルのように動き始めたときには
とんでもない感情の揺さぶりが隠されているケースが多いなあ。
それにしても、川村。遠いけど、とんでもなく豊かな建物。
常設展もすさまじいラインアップ。居心地よし。
2009年3月27日金曜日
すさまじい深さとプレゼンテーション「杉本博司/歴史の歴史」@金沢21世紀美術館
作品を支えるバックグラウンドというものが
ものを生み出す人、誰にでもあるとすると、
結構、その深さが出たりするものだと思う。
自分の惹かれてきたものたちを一同に会してみたときの
そこにあらわれる自分自身の歴史と実際に時代を刻んできた
そのもの自体の持つ歴史とがキレイにシンクロしていって
時間軸がぐちゃぐちゃになりつつ整理されていき
アートの作品へと昇華していく様は、人の人生そのものを
どうだ!とみせつけられているようで、心を揺さぶられる。
そこにある価値観の美しさとか何を大事にするのかという思いとか
杉本博司の美的センスの圧倒的高みを目の当たりにしつつ
作品そのものの見え方さえも決定的に変えるプロモーションとしての
素晴らしい戦略も感嘆する。
sea scapeに囲まれた中心に十一面観音があるんですよ。
化石と宇宙食が同列に語られる「美」の世界って。
何百年も生き抜いて生きた寺の柱の時間を感じろと
そっと立てられて、にょきにょきと部屋にあるんです。
肖像シリーズの脇にはタイム誌の表紙コレクションがあり、
小さな厨子の中には、現在作られたガラス球を閉じ込め、
死者の書も、華厳経も、月の写真も、同列に軸にされている世界。
キレイだと思う世界で、しっかりと立ち、勝負しきる。
本当に打たれた。
自分にとって、その世界はいったい何なのか?
何とよりそう人生なのか?
深いこと考えさせられる展示だった。
ものを生み出す人、誰にでもあるとすると、
結構、その深さが出たりするものだと思う。
自分の惹かれてきたものたちを一同に会してみたときの
そこにあらわれる自分自身の歴史と実際に時代を刻んできた
そのもの自体の持つ歴史とがキレイにシンクロしていって
時間軸がぐちゃぐちゃになりつつ整理されていき
アートの作品へと昇華していく様は、人の人生そのものを
どうだ!とみせつけられているようで、心を揺さぶられる。
そこにある価値観の美しさとか何を大事にするのかという思いとか
杉本博司の美的センスの圧倒的高みを目の当たりにしつつ
作品そのものの見え方さえも決定的に変えるプロモーションとしての
素晴らしい戦略も感嘆する。
sea scapeに囲まれた中心に十一面観音があるんですよ。
化石と宇宙食が同列に語られる「美」の世界って。
何百年も生き抜いて生きた寺の柱の時間を感じろと
そっと立てられて、にょきにょきと部屋にあるんです。
肖像シリーズの脇にはタイム誌の表紙コレクションがあり、
小さな厨子の中には、現在作られたガラス球を閉じ込め、
死者の書も、華厳経も、月の写真も、同列に軸にされている世界。
キレイだと思う世界で、しっかりと立ち、勝負しきる。
本当に打たれた。
自分にとって、その世界はいったい何なのか?
何とよりそう人生なのか?
深いこと考えさせられる展示だった。
2009年2月18日水曜日
みるとは?「ライト・インサイト」@ICC
光がなきゃ見れないし、
人の目は光をいろんな形でつかまえてるし、
その方法は自分で思っているよりもはるかに
パターン化してて、世界も決まりきったものになっちゃってるんだと
今更ながらにガツンと気づかされる展示で心揺れた。
もともと光にものすごくぐらぐらしやすい体質で
だいたい好きなものは光の感じがうまくコントロールされていて
オラファー・エリアソンとかビル・ヴィオラとか
そういう光が何かを切り裂く瞬間を楽しめるものは当たるんだ。
少ないけど、非常にしびれる、体験満載で本当に素晴らしい。
ちょっと具体的にメモしておこう。
なんだろう?当たり前に自分の身体に寄り添っているものを
びりびりとはがされて、目の前にほうらと放り出されるのが
すさまじい振動を起こすんだろうなあ。
《サンキュウ―インストゥルメント》1995年
インゴ・ギュンター
暗い空間の中で発されるストロボ光を浴びることで,
体験者のシルエットが壁面に一時的に焼き付けられる作品.
人々が無邪気にシルエットと戯れ始めるという開放的な側面を
もつとともに,1945年に広島に原爆が投下された直後の閃光,
そして瞬時のうちに消えてしまった人々の残したシルエット
(ヒロシマの影)を,観客に疑似的に体験させることが
意図されている.
タイトルは,ギュンターによれば,
広島への原爆投下という惨劇があったことが抑止力として働き,
冷戦下において核戦争の危機を回避することが
できたことを意味するという.
「被爆50周年記念展 広島以後」(広島市現代美術館,1995)
にて展示.
本展では,1895年のレントゲンによる放射線の発見が,
それ以降の社会にもたらした
貢献や問題(X線写真,原爆,原発等)を振り返るとともに,
とりわけ20世紀における光を考える上で,
私たちが忘れてはならない原爆投下という事実を
あらためて喚起する.
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
正直、日本に住んでいる人間からすると失礼な作品。
何を言われても、人の命が消えた瞬間を痛みもともなわずに
再現するなんて気分が悪い。
《You and I, Horizontal》2006年
アンソニー・マッコール
空間に入ると観客は,光による被膜のような
非物質的な立方体に遭遇する.
この立方体は,微細なミストにプロジェクターからの
光をあてることで実現されたものである.
壁面には,ラインによるドローイングが
見た目には変化がないほどゆっくり描かれ続け,
それが空間においては,次第に形態や空間性を変容させる
三次元の非物質的「彫刻」としてあらわれている.
観客は一種触覚的にも感じられる光の「彫刻」の
内外を自由に行き来することで,
異なる知覚体験に開かれるとともに,
「作品」の一部として「彫刻」
そして空間性に影響を及ぼしていく.
70年代初頭の実験を,
現代の機器によってインスタレーションとして実現.
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
これは、すごい。時間をかけていればいるほどすごい。
自分の周りに空間がひらけていくという感覚は
実際に得ることが少ないのだけど、新しい空間認知をゲットできる。
短い時間で出ちゃう人が多くてもったいない。30分はいれる。
《PRINTED EYE(LIGHT)》1987―2008年
藤本由紀夫
体験者が自分の眼に向けて
網膜に弱いストロボ光を発することで,
文字の残像を作品として体験させるもの.
今回は「LIGHT」(光)という言葉が,
光による非物質な体験として体験者それぞれの
網膜上に知覚されることになる.
眼球に直接文字を焼き付けることで成立する,
他者とは共有できないパーソナルな体験としての作品.
藤本は
「眼をとじても,みえてしまい,やがて消えていく文字.
それは音を聴くことににている」と述べている.
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
どこにでもついてくる作品というのは珍しく。
こういう人間の身体の仕組みを使い尽くすアイディアは
すごいなと思う。右みても左みても、この人の作品がついてくる。
まさにパーソナル。
《カメラ・ルシーダ:三次元音響観察室》2008年
エヴェリーナ・ドムニチ&ドミートリー・ゲルファンド
暗い空間の中で眼が慣れてくると,
中央にある水で満たされたアクリル性の球体の中に,
音から変換された繊細な光の揺らめきが
微かに見えはじめる作品.
さまざまな周波数の音波群が,
水に含まれる化学的な媒質を通過する際に生じる
「音ルミネセンス」現象
(音波の通過により冷光が発生すること)により,
直接光へと変換され可視化される.
構想段階では科学者にさえ不可能と思われた現象を,
日本,ドイツ,ロシア,ベルギーの科学研究所とともに開発.
タイトルにある「観察室」は,起きているミクロな現象が,
特定のマージナルな状況の時のみ
かろうじて可視化されるものであること,
また計測装置の精度の限界のため,
現象を科学者でさえ把握できないことを意味している.
この作品はまた,
化学と物理,球体の内と外(世界の内外),現象と観察者などを
かつてない方法でつなぎ,相互影響させていく試みでもある.
本展では,音圧他を調整できる最新ヴァージョンを展示.
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いろいろ注意も多いし、待つし、怖いしで、どうしようもないけど
まさにここでしか、しかも混んでない時にしか体験できない。
自然の中にひっそりと潜む消えている美を見つけ出す
スリルと興奮を味わえる。こんなものが隠れる余地があるというだけで
世界はまともだ。
人の目は光をいろんな形でつかまえてるし、
その方法は自分で思っているよりもはるかに
パターン化してて、世界も決まりきったものになっちゃってるんだと
今更ながらにガツンと気づかされる展示で心揺れた。
もともと光にものすごくぐらぐらしやすい体質で
だいたい好きなものは光の感じがうまくコントロールされていて
オラファー・エリアソンとかビル・ヴィオラとか
そういう光が何かを切り裂く瞬間を楽しめるものは当たるんだ。
少ないけど、非常にしびれる、体験満載で本当に素晴らしい。
ちょっと具体的にメモしておこう。
なんだろう?当たり前に自分の身体に寄り添っているものを
びりびりとはがされて、目の前にほうらと放り出されるのが
すさまじい振動を起こすんだろうなあ。
《サンキュウ―インストゥルメント》1995年
インゴ・ギュンター
暗い空間の中で発されるストロボ光を浴びることで,
体験者のシルエットが壁面に一時的に焼き付けられる作品.
人々が無邪気にシルエットと戯れ始めるという開放的な側面を
もつとともに,1945年に広島に原爆が投下された直後の閃光,
そして瞬時のうちに消えてしまった人々の残したシルエット
(ヒロシマの影)を,観客に疑似的に体験させることが
意図されている.
タイトルは,ギュンターによれば,
広島への原爆投下という惨劇があったことが抑止力として働き,
冷戦下において核戦争の危機を回避することが
できたことを意味するという.
「被爆50周年記念展 広島以後」(広島市現代美術館,1995)
にて展示.
本展では,1895年のレントゲンによる放射線の発見が,
それ以降の社会にもたらした
貢献や問題(X線写真,原爆,原発等)を振り返るとともに,
とりわけ20世紀における光を考える上で,
私たちが忘れてはならない原爆投下という事実を
あらためて喚起する.
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正直、日本に住んでいる人間からすると失礼な作品。
何を言われても、人の命が消えた瞬間を痛みもともなわずに
再現するなんて気分が悪い。
《You and I, Horizontal》2006年
アンソニー・マッコール
空間に入ると観客は,光による被膜のような
非物質的な立方体に遭遇する.
この立方体は,微細なミストにプロジェクターからの
光をあてることで実現されたものである.
壁面には,ラインによるドローイングが
見た目には変化がないほどゆっくり描かれ続け,
それが空間においては,次第に形態や空間性を変容させる
三次元の非物質的「彫刻」としてあらわれている.
観客は一種触覚的にも感じられる光の「彫刻」の
内外を自由に行き来することで,
異なる知覚体験に開かれるとともに,
「作品」の一部として「彫刻」
そして空間性に影響を及ぼしていく.
70年代初頭の実験を,
現代の機器によってインスタレーションとして実現.
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これは、すごい。時間をかけていればいるほどすごい。
自分の周りに空間がひらけていくという感覚は
実際に得ることが少ないのだけど、新しい空間認知をゲットできる。
短い時間で出ちゃう人が多くてもったいない。30分はいれる。
《PRINTED EYE(LIGHT)》1987―2008年
藤本由紀夫
体験者が自分の眼に向けて
網膜に弱いストロボ光を発することで,
文字の残像を作品として体験させるもの.
今回は「LIGHT」(光)という言葉が,
光による非物質な体験として体験者それぞれの
網膜上に知覚されることになる.
眼球に直接文字を焼き付けることで成立する,
他者とは共有できないパーソナルな体験としての作品.
藤本は
「眼をとじても,みえてしまい,やがて消えていく文字.
それは音を聴くことににている」と述べている.
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どこにでもついてくる作品というのは珍しく。
こういう人間の身体の仕組みを使い尽くすアイディアは
すごいなと思う。右みても左みても、この人の作品がついてくる。
まさにパーソナル。
《カメラ・ルシーダ:三次元音響観察室》2008年
エヴェリーナ・ドムニチ&ドミートリー・ゲルファンド
暗い空間の中で眼が慣れてくると,
中央にある水で満たされたアクリル性の球体の中に,
音から変換された繊細な光の揺らめきが
微かに見えはじめる作品.
さまざまな周波数の音波群が,
水に含まれる化学的な媒質を通過する際に生じる
「音ルミネセンス」現象
(音波の通過により冷光が発生すること)により,
直接光へと変換され可視化される.
構想段階では科学者にさえ不可能と思われた現象を,
日本,ドイツ,ロシア,ベルギーの科学研究所とともに開発.
タイトルにある「観察室」は,起きているミクロな現象が,
特定のマージナルな状況の時のみ
かろうじて可視化されるものであること,
また計測装置の精度の限界のため,
現象を科学者でさえ把握できないことを意味している.
この作品はまた,
化学と物理,球体の内と外(世界の内外),現象と観察者などを
かつてない方法でつなぎ,相互影響させていく試みでもある.
本展では,音圧他を調整できる最新ヴァージョンを展示.
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
いろいろ注意も多いし、待つし、怖いしで、どうしようもないけど
まさにここでしか、しかも混んでない時にしか体験できない。
自然の中にひっそりと潜む消えている美を見つけ出す
スリルと興奮を味わえる。こんなものが隠れる余地があるというだけで
世界はまともだ。
2008年12月11日木曜日
るつぼと勢い「チャロー!インディア」@森美術館
行き先の見えていない国のメンタルの強さって
すごくアートに出てくるなあ。なんか沸騰する力が。
中国アートがのしてくる瞬間とかも感じたけど
問題の現れ方とか対立の真剣さとか喜びの大きさとか
いちいち振り幅が大きくて、ピュアなんだと思う。
モノになったときの欲求がシンプルでつかみやすいから
美術史の壮大な俯瞰図に置いていく作業の深さが必要じゃない分
(必要なのかもしれないけれど、そうできなくても・・・)
楽しく、様々なチャンネルを次々に刺激されてよい感じ。
バールティ・ケールの倒れた巨像の肌にはびっしりと精子が泳ぎまくり
シルバ・グプタの映像は自分の影に次々にモノが飛んできてくっつく。
うざくて笑える。ドラえもんっぽい実体験。
ヴィヴァン・スンダラムのブリキでできたインドの街の模型は
その屋根がとたんとかブルーシートだったりするのに
照明でキラキラしてて、変に感動した。ここにも光があるなあと。
N・S・ハルシャの椅子は、ひとつひとつが監視員が座ってなんぼなのに
恥ずかしいのかあまり座っていない。ダメだよなあ、つまんない。
美術館が試みからおりちゃってる。
作家の名前忘れちゃったんだけど、巨大なクジャクの頭が床からニョキって
出てるやつも、よく見ると壁紙みたいなテキスタイルで出来てて
おお!こんな風な色つやに見えるのか!と感心したりした。
メモリーという文字の奥に六本木の夜景が見えてキレイだったり。
いくつも心に残るシーンが残った。人に届けという想いの差かな?
すごくアートに出てくるなあ。なんか沸騰する力が。
中国アートがのしてくる瞬間とかも感じたけど
問題の現れ方とか対立の真剣さとか喜びの大きさとか
いちいち振り幅が大きくて、ピュアなんだと思う。
モノになったときの欲求がシンプルでつかみやすいから
美術史の壮大な俯瞰図に置いていく作業の深さが必要じゃない分
(必要なのかもしれないけれど、そうできなくても・・・)
楽しく、様々なチャンネルを次々に刺激されてよい感じ。
バールティ・ケールの倒れた巨像の肌にはびっしりと精子が泳ぎまくり
シルバ・グプタの映像は自分の影に次々にモノが飛んできてくっつく。
うざくて笑える。ドラえもんっぽい実体験。
ヴィヴァン・スンダラムのブリキでできたインドの街の模型は
その屋根がとたんとかブルーシートだったりするのに
照明でキラキラしてて、変に感動した。ここにも光があるなあと。
N・S・ハルシャの椅子は、ひとつひとつが監視員が座ってなんぼなのに
恥ずかしいのかあまり座っていない。ダメだよなあ、つまんない。
美術館が試みからおりちゃってる。
作家の名前忘れちゃったんだけど、巨大なクジャクの頭が床からニョキって
出てるやつも、よく見ると壁紙みたいなテキスタイルで出来てて
おお!こんな風な色つやに見えるのか!と感心したりした。
メモリーという文字の奥に六本木の夜景が見えてキレイだったり。
いくつも心に残るシーンが残った。人に届けという想いの差かな?
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