うむむ、醍醐味だ。企画した人、気持ちいいだろうなあ。
「生命(いのち)と愛の未来を探る」というテーマで
古今東西のありとあらゆる生命に関するものが大集合。
薬のメーカーとして始まったウエルカム財団っていうところが
集めた様々な医学の進歩を示すものたちに、アートがからんでいく。
医学備品みたいなものが、まあいちいち面白い。
美しいかといえば微妙だけど、最先端の頭脳を使って
考えられた様々なものは、ある意味考え過ぎちゃっててグッとくる。
義足、義手は造形の極みだし(HONDAの最先端義足まで展示)
貞操帯なんかも徹底して操作性/装着性を考えた丸みがよい。
超巨大なふいごが人工呼吸器の役割を果たす(棺桶的ですらある)
こととか気づいた人はすごいと思うし。
ダヴィンチの肺とか心臓のデッサン、本当にすさまじい細密さで、
線にブレがなく、まっすぐと走っていくのは本物ならではの迫力。
わざわざイギリスの王室コレクションから上陸。
抜けると、骸骨が波をバックにたたずむ
円山応挙「波上白骨座禅図」が。やりたい放題。頭使わせる感じ。
手術は見せ物だった時代、シアターのような場所で解剖する様子を
描いた画がずらりと並んだのを見たあとに、
狩野一信「五百羅漢図 第59幅 神通」があり日本の神通力的な
ぼんやりした医学力を感じ、その先には、
デミアン・ハーストが妻の出産シーンを超リアルに描いた絵画が。
なんか血とか見えなくなったけど、その景色を写真とみまごうばかりの
絵画で見るという、考えちゃう人にはウハウハなコンセプト。
売れるわ、ハースト。あと、この人って普通に画が超うまい。
ジル・バルビエ「老人ホーム」というくだらないコントみたいな作品も。
歩行器使用のスーパーマン、立てないバッドマン、ぼけてガリガリの超人ハルク。
やりきることって大事なんだな。
老人の皮膚を持った、子どもがゲームボーイで遊んでいたりもする。
部屋の片隅で。パトリシア・ピッチニーニ作品。
すさまじい企画だなあと思ったのは、死の直前の顔と死の直後の顔を
写真で撮って並べた作品。ヴァルター・シェルスのもの。
死を悟った人たちのやわらかな表情と、そのつながりの中で感じる
死んだあとのやすらかな表情。生と死、その時間は切れているのか?
で、DNAの発見した人のなんとなくひらめいちゃったぞというメモも展示。
どうして、らせんだ!なんて思ったのか?本当にすごいことだ。
人間の飽くなき欲求は。果てしない。
ひたすらに頭を回転させて見る感じ。エクササイズとしてはよかった。
けど、これは美しいのか?
2010年4月21日水曜日
3Dということは「アバター」
とにかく最初は、2D時代の名作という名作を
サンプリングしてしまえということだと思った。
そして、それに気づき、ちゃんと実行し、当てた。
だって、映画史のベスト版のようなもので
切り取る画切り取る画、最強みたいな感じだから。
もはや、オリジナルとかにこだわらず、
いいものはいいじゃないか、みんなの知恵が
結集してればいいじゃないか。おそらくそんなテンション。
意識しているのかしていないのかは定かではないが
意識している方がよっぽど恐ろしく偉大だと思う。
すでに存在する名作クリップの数々が集まることで
そこに生み出されるハーモニーみたいなものが
すさまじいグルーブを生み出すことは
音楽では当たり前になりつつあったけど
文章とか映像だとまだまだオリジナル神話が根強い。
そうじゃないよ、と。いい画はいい画だし、みんな見たいのって
こういうことだよねという潔さ。
そこにひどくココロを打たれた。
話も特に、おお!斬新なんて一個も思わない感じなのに
映像体験として新鮮なのは本当に素晴らしいなあ。
いちいち手前のものをなめていくアングルが多いのは仕方ないか。
なにせ飛び出してくることなんかよりも奥行きが勝負だから
(そんなに画面に向かって何かが頻繁に飛び出してくるのなんか
シーンを考えるだけでも難しいと思う)
仕方なしそうなのだろう。うざいほどに手前を植物が通り過ぎていった。
サンプリングしてしまえということだと思った。
そして、それに気づき、ちゃんと実行し、当てた。
だって、映画史のベスト版のようなもので
切り取る画切り取る画、最強みたいな感じだから。
もはや、オリジナルとかにこだわらず、
いいものはいいじゃないか、みんなの知恵が
結集してればいいじゃないか。おそらくそんなテンション。
意識しているのかしていないのかは定かではないが
意識している方がよっぽど恐ろしく偉大だと思う。
すでに存在する名作クリップの数々が集まることで
そこに生み出されるハーモニーみたいなものが
すさまじいグルーブを生み出すことは
音楽では当たり前になりつつあったけど
文章とか映像だとまだまだオリジナル神話が根強い。
そうじゃないよ、と。いい画はいい画だし、みんな見たいのって
こういうことだよねという潔さ。
そこにひどくココロを打たれた。
話も特に、おお!斬新なんて一個も思わない感じなのに
映像体験として新鮮なのは本当に素晴らしいなあ。
いちいち手前のものをなめていくアングルが多いのは仕方ないか。
なにせ飛び出してくることなんかよりも奥行きが勝負だから
(そんなに画面に向かって何かが頻繁に飛び出してくるのなんか
シーンを考えるだけでも難しいと思う)
仕方なしそうなのだろう。うざいほどに手前を植物が通り過ぎていった。
2010年4月6日火曜日
手触りが大切な画「断面の世代/束芋」@横浜美術館
「断面の世代」っていうのは、束芋さんの造語で
まさに1970年代、自分の含まれる年代のことを
指しているらしい。当然、「団塊の世代」とも関係してくる。
本人によれば、以下のような感じ。
団塊の世代の方々は、
太巻きの中の玉子焼きやかんぴょうといった、
それぞれが具の1個1個なんです。
私たちの世代も、同じ目標として太巻きになることを
目指しているのですが、個人としてはすべての要素を持っている
太巻きを切り分けたときにできる断面のようなもの。
一応全て持ち合わせているので何でもできるって
思い込んでいるんだけど、よく自分自身を見てみると
薄っぺらい二次元の断面でしかない。
集まればいちおうは三次元の太巻きになれるんだけど、
それぞれがいろんな形、色々な大きさをしているから、
いびつな太巻きになるかもしれない。
逆に団塊の世代は、それぞれが玉子焼きだったり
かんぴょうだったりキュウリだったりして個性的だから、
てんでバラバラになりかねない。
だけど、その多様な具をまとめる米だとか海苔だとかっていう
リーダー的な存在がいれば、ひとつの太巻きになれる、
みたいなイメージです
※横浜美術館/国立国際美術館『束芋:断面の世代』より引用
横浜美術館の吹き抜け全体を使って、団地の様子が映し出されていて
入った瞬間に居心地が悪くざわざわする。
本当にこの人の作品は、触感がある。抵抗感。
神経症みたいな筆致がもぞもぞと動いて絶望的な世界に
移り変わっていくアニメーションは、本当に暗く美しい。
確かにキレイだ。
ワンルームがきたなく汚れ、タンスから無数のゴミが散り、
血が流れ、人の身体がバラバラになろうとも、
世界は必ず美しさを持って立ち現れる。不思議。
骨が水面から顔を出すと、花を咲かせるやつとか
女の髪でいっぱいになったスクリーンをかき分けると
そこに日常の渋滞する交差点があったりとか
キレイに整わない日常の中に確かに「生」があるのは
みごたえたっぷり。
それにしても、この人のキャリアは本当にすごい。
うらやましいほどの、前人未到。あやかりたい。
長野に住んでいるあたりも、いけてる。
まさに1970年代、自分の含まれる年代のことを
指しているらしい。当然、「団塊の世代」とも関係してくる。
本人によれば、以下のような感じ。
団塊の世代の方々は、
太巻きの中の玉子焼きやかんぴょうといった、
それぞれが具の1個1個なんです。
私たちの世代も、同じ目標として太巻きになることを
目指しているのですが、個人としてはすべての要素を持っている
太巻きを切り分けたときにできる断面のようなもの。
一応全て持ち合わせているので何でもできるって
思い込んでいるんだけど、よく自分自身を見てみると
薄っぺらい二次元の断面でしかない。
集まればいちおうは三次元の太巻きになれるんだけど、
それぞれがいろんな形、色々な大きさをしているから、
いびつな太巻きになるかもしれない。
逆に団塊の世代は、それぞれが玉子焼きだったり
かんぴょうだったりキュウリだったりして個性的だから、
てんでバラバラになりかねない。
だけど、その多様な具をまとめる米だとか海苔だとかっていう
リーダー的な存在がいれば、ひとつの太巻きになれる、
みたいなイメージです
※横浜美術館/国立国際美術館『束芋:断面の世代』より引用
横浜美術館の吹き抜け全体を使って、団地の様子が映し出されていて
入った瞬間に居心地が悪くざわざわする。
本当にこの人の作品は、触感がある。抵抗感。
神経症みたいな筆致がもぞもぞと動いて絶望的な世界に
移り変わっていくアニメーションは、本当に暗く美しい。
確かにキレイだ。
ワンルームがきたなく汚れ、タンスから無数のゴミが散り、
血が流れ、人の身体がバラバラになろうとも、
世界は必ず美しさを持って立ち現れる。不思議。
骨が水面から顔を出すと、花を咲かせるやつとか
女の髪でいっぱいになったスクリーンをかき分けると
そこに日常の渋滞する交差点があったりとか
キレイに整わない日常の中に確かに「生」があるのは
みごたえたっぷり。
それにしても、この人のキャリアは本当にすごい。
うらやましいほどの、前人未到。あやかりたい。
長野に住んでいるあたりも、いけてる。
2010年3月5日金曜日
ひたすらな信仰「整地チベット・ポタラ宮と天空の至宝」@上野の森美術館
密教的なもののすさまじいところは、
異常なまでの密度にあると思う。
修行のあり方もそうだけど、祀っている仏像とか
もうちょっと目がくらむほどの密集。
腕がほんとに千本あったり
男の神と女の神がありえない形で交わってたり
著名な坊さんの頭蓋骨を水入れに使ったり。
想いの密集が半端ない。ひたすらひたすら念じて
考えて考えて考えてということが出来てしまう
厳しい環境がきっと、そういう宗教を生むのだろう。
あと歴史に残る名坊主みたいなのがたくさんいるのだが
どうも、こういっては罰あたりだが、怪しい。
みなインドの方からチベットにやってくるわけ。
荒んだチベット密教を立て直していくんだけど、
今、本場インドじゃあ、これが流行なんだ!的なことかと
思うとどうにも、軽々しく信じられない。
あとは、地面に巨大な人間が横たわっていて
その人間が暴れないように、要所要所に
寺が立っているという壮大なプランが面白かった。
でも、やっぱり、土地というのは
その地面そのものが大事で、そこに神が宿るのだと
改めて感じた。だって、そんな昔からだもの。
異常なまでの密度にあると思う。
修行のあり方もそうだけど、祀っている仏像とか
もうちょっと目がくらむほどの密集。
腕がほんとに千本あったり
男の神と女の神がありえない形で交わってたり
著名な坊さんの頭蓋骨を水入れに使ったり。
想いの密集が半端ない。ひたすらひたすら念じて
考えて考えて考えてということが出来てしまう
厳しい環境がきっと、そういう宗教を生むのだろう。
あと歴史に残る名坊主みたいなのがたくさんいるのだが
どうも、こういっては罰あたりだが、怪しい。
みなインドの方からチベットにやってくるわけ。
荒んだチベット密教を立て直していくんだけど、
今、本場インドじゃあ、これが流行なんだ!的なことかと
思うとどうにも、軽々しく信じられない。
あとは、地面に巨大な人間が横たわっていて
その人間が暴れないように、要所要所に
寺が立っているという壮大なプランが面白かった。
でも、やっぱり、土地というのは
その地面そのものが大事で、そこに神が宿るのだと
改めて感じた。だって、そんな昔からだもの。
2009年12月15日火曜日
見続けること「ハリーポッターと謎のプリンス」
なんか、もう面白いとか面白くないとか
超越し始めているハリーポッター。
普通に成長していく主人公たちのリアルライフも
同じように思春期を通り過ぎ、なんだか恋の揺らぎも
使命感とか運命とかへの抗いも見事に画面に焼き付いていて
本当に楽しめる。
ハーマイオニーは相変わらずポッターに気持ちを
伝えず、その嫉妬っぷりはいい感じにイライラ。
可愛くなった可愛くなった、エマ・ワトソン。
リアルライフも賢くて、よいなあ、こういう同時進行。
やらなくちゃいけないことが決まっている若者たちが
その事態そのものにいらだちとか迷いとか感じるのは
役者たちがこのシリーズを全うしなくちゃいけないことにも
重なって、ムダに思い入れてしまう。
ダンブルドアの圧倒的な力に老いを感じ始めるあたりも
人生の憂いがあって、深い時間の流れがぐっとくる。
どんどんトーンが暗くなるシリーズ。
果たして、どす黒い結末は、映画でどのように描かれるのか?
楽しみだ。
超越し始めているハリーポッター。
普通に成長していく主人公たちのリアルライフも
同じように思春期を通り過ぎ、なんだか恋の揺らぎも
使命感とか運命とかへの抗いも見事に画面に焼き付いていて
本当に楽しめる。
ハーマイオニーは相変わらずポッターに気持ちを
伝えず、その嫉妬っぷりはいい感じにイライラ。
可愛くなった可愛くなった、エマ・ワトソン。
リアルライフも賢くて、よいなあ、こういう同時進行。
やらなくちゃいけないことが決まっている若者たちが
その事態そのものにいらだちとか迷いとか感じるのは
役者たちがこのシリーズを全うしなくちゃいけないことにも
重なって、ムダに思い入れてしまう。
ダンブルドアの圧倒的な力に老いを感じ始めるあたりも
人生の憂いがあって、深い時間の流れがぐっとくる。
どんどんトーンが暗くなるシリーズ。
果たして、どす黒い結末は、映画でどのように描かれるのか?
楽しみだ。
2009年10月6日火曜日
気持ちは残る「コクーン歌舞伎/桜姫」@シアターコクーン
システムとしては理解しているんだけど
死んだ人の怨霊が…という考え方が、能やら歌舞伎やらには
しっかりあって、この世の中はそういったものがあるから
とってもエモーショナルな感動的な、ある意味恐怖なことが
起こって面白いという、ことなのかな?
身体の感覚として、ああ、そうだなあ、それは
こわくて、かつ面白いなあなんて気付いたことはなかったんだけど
今回、現代版と歌舞伎の桜姫を見て、なんだか一番考えたのは
そこだった。人が消えるということの不可思議を、生きている
人間の気持ちとうまく結びつけて進んでいくお話は、
あの世とこの世のつながりをイメージしないと何の深まりも
見せない嘘っぱちなものになってしまうけれど、
愛し合う中で身を投げたり、生き残ってしまったり、
それを悔いてみたり、喜んでみたり、非難してみたり、
結局、どうしようもない戻ることのできない時間の中で
感情が右往左往するのはたまらなく面白いなあと感じた。
現代版の方を見ただけだと思わなかったんだけど、
オリジナルの歌舞伎の方とあいまったときに
しみじみと考えさせられた。あとは、そういう世界を失っている
今っていう世界ってどうなのだろう?とか。
気持ちは逆にどんどん薄っぺらになっているのかも
しれないなあとふと思ってしまった。
それにしても、歌舞伎役者さんって、やっぱり上手い。
アドリブに近づいていけばいくほど、場数が違うからか、
型があるからか分からないけれど、妙に場にしっくりと
生きながらえる。なんか小笑いとかが異常にうまくはまる。
あの技はなんだ?あれ。
死んだ人の怨霊が…という考え方が、能やら歌舞伎やらには
しっかりあって、この世の中はそういったものがあるから
とってもエモーショナルな感動的な、ある意味恐怖なことが
起こって面白いという、ことなのかな?
身体の感覚として、ああ、そうだなあ、それは
こわくて、かつ面白いなあなんて気付いたことはなかったんだけど
今回、現代版と歌舞伎の桜姫を見て、なんだか一番考えたのは
そこだった。人が消えるということの不可思議を、生きている
人間の気持ちとうまく結びつけて進んでいくお話は、
あの世とこの世のつながりをイメージしないと何の深まりも
見せない嘘っぱちなものになってしまうけれど、
愛し合う中で身を投げたり、生き残ってしまったり、
それを悔いてみたり、喜んでみたり、非難してみたり、
結局、どうしようもない戻ることのできない時間の中で
感情が右往左往するのはたまらなく面白いなあと感じた。
現代版の方を見ただけだと思わなかったんだけど、
オリジナルの歌舞伎の方とあいまったときに
しみじみと考えさせられた。あとは、そういう世界を失っている
今っていう世界ってどうなのだろう?とか。
気持ちは逆にどんどん薄っぺらになっているのかも
しれないなあとふと思ってしまった。
それにしても、歌舞伎役者さんって、やっぱり上手い。
アドリブに近づいていけばいくほど、場数が違うからか、
型があるからか分からないけれど、妙に場にしっくりと
生きながらえる。なんか小笑いとかが異常にうまくはまる。
あの技はなんだ?あれ。
英語が分からない「ヴェニスの商人/プロペラ」@東京芸術劇場
なんかやたらに英語が分からないなあと思った公演だった。
また、最近視力がかなりへたってきていて
字幕も小さいもんだから、まあ見えない。
頭に刻み込まれた筋を追いながら見るも、
かなりシーン作りそのものがイメージに即した
アレンジが濃厚にされてるため、ときおり見失う。
観劇しながらところどころ脱落しながら
かろうじてついていくという不思議な体験。
芝居そのものは面白かった。野田秀樹が呼んだらしいんだけど
「らしい」というか非常に「動く」集団だった。
男ばっかりの集団で、手品っぽいこともあり、
手に楽器を持って奏でるアンサンブルっぽいこともあり、
ピエロのように飛び回る狂言まわしがいたり、
言葉にしちゃえば創意工夫?をガンガンおしてくる感じ。
それを深いテキストで支えていくというつくり。
ちょっとテキストが浮いている気もしたんだけど
英語取り残されてるから、確信がもてず。
もともとイギリスでは田舎の水車小屋を常小屋に
しているらしく、確かにそこの方が圧倒的に映えそうな
舞台だった。なんか、近代的なちゃんとしたハコに入ると
遊び心が浮いちゃって、荒く見えちゃう損もあるなあと。
みなさん、ちゃんと制度が身体に乗っている感じもあって
しっかり遊ぶという空気でのびのびとはしなかったけれど
でも、見たことないヴェニスの商人で楽しめた。
また、最近視力がかなりへたってきていて
字幕も小さいもんだから、まあ見えない。
頭に刻み込まれた筋を追いながら見るも、
かなりシーン作りそのものがイメージに即した
アレンジが濃厚にされてるため、ときおり見失う。
観劇しながらところどころ脱落しながら
かろうじてついていくという不思議な体験。
芝居そのものは面白かった。野田秀樹が呼んだらしいんだけど
「らしい」というか非常に「動く」集団だった。
男ばっかりの集団で、手品っぽいこともあり、
手に楽器を持って奏でるアンサンブルっぽいこともあり、
ピエロのように飛び回る狂言まわしがいたり、
言葉にしちゃえば創意工夫?をガンガンおしてくる感じ。
それを深いテキストで支えていくというつくり。
ちょっとテキストが浮いている気もしたんだけど
英語取り残されてるから、確信がもてず。
もともとイギリスでは田舎の水車小屋を常小屋に
しているらしく、確かにそこの方が圧倒的に映えそうな
舞台だった。なんか、近代的なちゃんとしたハコに入ると
遊び心が浮いちゃって、荒く見えちゃう損もあるなあと。
みなさん、ちゃんと制度が身体に乗っている感じもあって
しっかり遊ぶという空気でのびのびとはしなかったけれど
でも、見たことないヴェニスの商人で楽しめた。
2009年9月16日水曜日
熱気とはこういうことか「エヴァンゲリオン 破」
もうだいぶ、ブログも停滞。
でも、停滞しても、ちょいちょい書くと
結構あとで読んだりするから、がんばって食らいつく。
もう7月のことでかなりうろ覚えなんだけど
この映画の不思議なところは中身よりも
圧倒的に映画館の雰囲気を覚えているところ。
新宿のミラノ座に見に行ったんだけど
あの巨大な映画館がびっしり。しかもほぼ同世代。
10代最後から30代くらいがどっさり。
青年会とかの寄り合いみたいな空気。
しかも、みんなはじまる前からエヴァ雑学を
喋りまくってる。右も左も後ろも前も。
そして、終わると衝撃のカーテンコール。
日本で映画館で舞台挨拶もなく自然に
カーテンコールの拍手が沸くのってはじめて体験。
熱。もう盲目なまでの熱。
中身はエヴァらしい混沌さはなくて、
ちゃんと整理された感情で作られているので
なんかあの頃見た斬新な多重人格ぽい売りは
失われている気がしたけど、その分、
普通の見世物としてのクオリティは高いと思った。
画もよく動くし、カメラワークの奥行きとか
アニメでしかできないし、アニメとは思えないし、
音もがんがん打ちつけてくる。
突然の童謡は、受け止め方微妙だったけど。
まあ、それはいろんなセンスがあるということで。
メガネキャラの女子が出てくるだけど
頭使って生み出されたキャラっぽくて
ぜんぜん魅力的じゃなかった。
あれ、必要だったのかなあ。
でも、停滞しても、ちょいちょい書くと
結構あとで読んだりするから、がんばって食らいつく。
もう7月のことでかなりうろ覚えなんだけど
この映画の不思議なところは中身よりも
圧倒的に映画館の雰囲気を覚えているところ。
新宿のミラノ座に見に行ったんだけど
あの巨大な映画館がびっしり。しかもほぼ同世代。
10代最後から30代くらいがどっさり。
青年会とかの寄り合いみたいな空気。
しかも、みんなはじまる前からエヴァ雑学を
喋りまくってる。右も左も後ろも前も。
そして、終わると衝撃のカーテンコール。
日本で映画館で舞台挨拶もなく自然に
カーテンコールの拍手が沸くのってはじめて体験。
熱。もう盲目なまでの熱。
中身はエヴァらしい混沌さはなくて、
ちゃんと整理された感情で作られているので
なんかあの頃見た斬新な多重人格ぽい売りは
失われている気がしたけど、その分、
普通の見世物としてのクオリティは高いと思った。
画もよく動くし、カメラワークの奥行きとか
アニメでしかできないし、アニメとは思えないし、
音もがんがん打ちつけてくる。
突然の童謡は、受け止め方微妙だったけど。
まあ、それはいろんなセンスがあるということで。
メガネキャラの女子が出てくるだけど
頭使って生み出されたキャラっぽくて
ぜんぜん魅力的じゃなかった。
あれ、必要だったのかなあ。
2009年7月26日日曜日
「L_B_S/名和晃平」@メゾンエルメス
名和さんといえば、粒粒ビーズなんだけど、
「L_B_S」はLiquid、Beads、Scumの頭文字を取ったものらしい。
beadsは、よく見た粒粒ビーズ。今回が鹿がまるごと粒粒に
覆われている。なんか表面が溶け出して、空気とのヘリが
変化しているみたいで、妙に気持ち悪い。いい意味で。
こんな感覚になったことは、名和さんのを見てて初めてで
やはりフルフィギュアだと見る方の感じ方も変わるなあと思った。
ちょっとジョジョみたいな、北斗の拳的な形の変わり方ね。
で、Scumはこんなことらしい。(人の文章から抜粋)
ビーズで覆うPixCellシリーズの作品になりえなかった素材の表面に、
ポリウレタン樹脂を特殊な手法で吹き付けて制作されるという
Villus(柔毛の表皮)は、ビーズのように透明感のある素材と違い、
内部のモノはまったく見えない。
その輪郭から「仏像」あるいは「手榴弾」かな、と推測はできるが、
内部にその物体が本当に入っているのかわからない。
それは、「仏像かもしれない」し、「手榴弾かもしれない」。
一様に同じ皮膜(Villus)をまとったモノたちは、
視覚的な形状からのみ、個性を主張する。
ふわふわした皮膜を一枚かぶるだけで
物の個性というのは、ここまで失われるのかと、
ちょっと意外にも思う感じ。
たしかに影絵とかでも、はっきり分かるものって意外にない。
モノは、今ある形の輪郭をしっかりと持ってこそ
はじめて認識ができるものなんだなあと思った。
細部までちゃんと、そのものであることが大事とは
身につまされる感じがした。
で、Liquid。シリコンオイルに耐えることなく
泡が生まれては消え、生まれたは消える。
形ができては失われていくその連続を見つめていると
気が狂いそうになる。
なんかもこもこもこもこ生まれてくるのって
ゾンビみたいな感じがして、妙にざわざわする。
命が半端な形に、おもちゃに作られている感じは
勝手にこっちが思ったことだけど、そんな吐き気がした。
いい意味で。
「L_B_S」はLiquid、Beads、Scumの頭文字を取ったものらしい。
beadsは、よく見た粒粒ビーズ。今回が鹿がまるごと粒粒に
覆われている。なんか表面が溶け出して、空気とのヘリが
変化しているみたいで、妙に気持ち悪い。いい意味で。
こんな感覚になったことは、名和さんのを見てて初めてで
やはりフルフィギュアだと見る方の感じ方も変わるなあと思った。
ちょっとジョジョみたいな、北斗の拳的な形の変わり方ね。
で、Scumはこんなことらしい。(人の文章から抜粋)
ビーズで覆うPixCellシリーズの作品になりえなかった素材の表面に、
ポリウレタン樹脂を特殊な手法で吹き付けて制作されるという
Villus(柔毛の表皮)は、ビーズのように透明感のある素材と違い、
内部のモノはまったく見えない。
その輪郭から「仏像」あるいは「手榴弾」かな、と推測はできるが、
内部にその物体が本当に入っているのかわからない。
それは、「仏像かもしれない」し、「手榴弾かもしれない」。
一様に同じ皮膜(Villus)をまとったモノたちは、
視覚的な形状からのみ、個性を主張する。
ふわふわした皮膜を一枚かぶるだけで
物の個性というのは、ここまで失われるのかと、
ちょっと意外にも思う感じ。
たしかに影絵とかでも、はっきり分かるものって意外にない。
モノは、今ある形の輪郭をしっかりと持ってこそ
はじめて認識ができるものなんだなあと思った。
細部までちゃんと、そのものであることが大事とは
身につまされる感じがした。
で、Liquid。シリコンオイルに耐えることなく
泡が生まれては消え、生まれたは消える。
形ができては失われていくその連続を見つめていると
気が狂いそうになる。
なんかもこもこもこもこ生まれてくるのって
ゾンビみたいな感じがして、妙にざわざわする。
命が半端な形に、おもちゃに作られている感じは
勝手にこっちが思ったことだけど、そんな吐き気がした。
いい意味で。
駄話「ボス・イン・ザ・スカイ/ヨーロッパ企画」@青山円形劇場
なんか全編、大人計画のアドリブ部分で出来ているような
ゆる会話で楽しめた。うむ、よく出来てる。
で、書こうと思っても、あるジェネレーションからは
絶対に書けないであろう、テイスト。
ドラゴンを退治して掃除する一団があって、
もうちょっとその仕事は、かつてかっこよかったはずなのに
今では時代遅れみたいになっていて、
悲しいかな、どんどんやる人も少なくなってて
熱意というよりは惰性で、ヒーロー性のある仕事を
続けているという、なかなか思いつきそうで
うまくはまらない枠組みを上手に使ってる。
感心。
いちいちこねたがうまい。印象。
大きい枠組みでの落としの作り方は、往年のナイロン。
そういう意味では、あらゆる90年代から00年代の
いいとこどりで出来ている雰囲気のお芝居だった。
ああ、なんか覚えておきたいネタ、結構あったのに。
すっかろ忘れている自分が悲しい。なんだっけなあ。
ゆる会話で楽しめた。うむ、よく出来てる。
で、書こうと思っても、あるジェネレーションからは
絶対に書けないであろう、テイスト。
ドラゴンを退治して掃除する一団があって、
もうちょっとその仕事は、かつてかっこよかったはずなのに
今では時代遅れみたいになっていて、
悲しいかな、どんどんやる人も少なくなってて
熱意というよりは惰性で、ヒーロー性のある仕事を
続けているという、なかなか思いつきそうで
うまくはまらない枠組みを上手に使ってる。
感心。
いちいちこねたがうまい。印象。
大きい枠組みでの落としの作り方は、往年のナイロン。
そういう意味では、あらゆる90年代から00年代の
いいとこどりで出来ている雰囲気のお芝居だった。
ああ、なんか覚えておきたいネタ、結構あったのに。
すっかろ忘れている自分が悲しい。なんだっけなあ。
2009年6月19日金曜日
ぼんやりと光る「project N 阿部岳史」@東京オペラシティアートギャラリー
東京オペラシティアートギャラリーの若手紹介プロジェクトは
意外と外さない。というか趣味が合うらしい。
結構いいなあ、この人。欲しいなあと思うことが多くて、
高木紗恵子さんとかもここでやっている。
たぶん結構自然光が入って明るい通路みたいな空間なので
自分自身が好きな色が出やすいんだと思う。
明るくてぱっとして、それでいてべたべたしない、
さらっとぱきっとした、気持ちを押し出す色たち。
今回の阿部さんは、単色の小さなブロックをたくさん
配置して、離れてみるととあるぼんやりした景色が
浮かび上がってくるという色彩分割みたいな考え方を
現代版でやっている人。(だと思う)
まあ、この人の今まで作ってきたものを全部見たわけでは
ないけれども、ほどよい今の距離感だなあと思って
面白かった。
思い出せないわけでもないけれど、
はっきりと思い出せるわけでもない、
そんな大切な時間とか仲間とかの瞬間が頭の中であいまいに
積み上げられていく。で、暗く沈まない。
ぼんやりはしているものの、間違いなくそのものとして光る。
思い出と呼ばれるものの、そのよさ。
見えないから暗くなるのではなく、ちょっとした瞬間を
つないでいくだけでも結構明るい空間が光っている。
人生は誰にとっても捨てたもんじゃないと思わせてくれる
毎日のワンシーンから抽出した色たち。
時間はいつも光っていて、何かの景色をぼんやりと
とどめながら、あのシーンにもかのシーンにも見える
リアルな思い出を違った形で体感できる絵だった。
意外と外さない。というか趣味が合うらしい。
結構いいなあ、この人。欲しいなあと思うことが多くて、
高木紗恵子さんとかもここでやっている。
たぶん結構自然光が入って明るい通路みたいな空間なので
自分自身が好きな色が出やすいんだと思う。
明るくてぱっとして、それでいてべたべたしない、
さらっとぱきっとした、気持ちを押し出す色たち。
今回の阿部さんは、単色の小さなブロックをたくさん
配置して、離れてみるととあるぼんやりした景色が
浮かび上がってくるという色彩分割みたいな考え方を
現代版でやっている人。(だと思う)
まあ、この人の今まで作ってきたものを全部見たわけでは
ないけれども、ほどよい今の距離感だなあと思って
面白かった。
思い出せないわけでもないけれど、
はっきりと思い出せるわけでもない、
そんな大切な時間とか仲間とかの瞬間が頭の中であいまいに
積み上げられていく。で、暗く沈まない。
ぼんやりはしているものの、間違いなくそのものとして光る。
思い出と呼ばれるものの、そのよさ。
見えないから暗くなるのではなく、ちょっとした瞬間を
つないでいくだけでも結構明るい空間が光っている。
人生は誰にとっても捨てたもんじゃないと思わせてくれる
毎日のワンシーンから抽出した色たち。
時間はいつも光っていて、何かの景色をぼんやりと
とどめながら、あのシーンにもかのシーンにも見える
リアルな思い出を違った形で体感できる絵だった。
2009年6月14日日曜日
時代とビビッドに生きる「マティスの時代」@ブリヂストン美術館
決してひとりで生きているわけではなく
確実に世の中の流れの中で生きていることを
いち早く感じて、自分の主義やスタイルを貪欲に
変えていける強さこそが「大成」するということだろうと思う。
唯我独尊なんか、いらない。
多くの人が進む方向にしっかりと見つつ、寄せていける。
現在のアーティストには、そんな商売っ気も必要なんだろう。
マティスとフォーヴィズムの出現
フォーヴの仲間たち
親密なあるいは曖昧な空間
色とかたちの純粋化
そんな流れで展示は展開。あまりしっかりしたマティスの絵はなく
あくまでも「マティスの時代」という看板に偽りない展示。
並べてみると、ズラリと時代を越えた画家たちが。
最近、妙にルオーが大好き。世の中は、むしろ変えたいのだろう。
特に、ルオーのエルサレムとかのゴツゴツした中に色がマーブルに
眠る感じにたまらない深さを感じる。
常設展では、
安井會太郎の超モダンなデザイン画がよかった。
ちいさなサイズが壁面に並んでいく。そのリズムに打たれた。
確実に世の中の流れの中で生きていることを
いち早く感じて、自分の主義やスタイルを貪欲に
変えていける強さこそが「大成」するということだろうと思う。
唯我独尊なんか、いらない。
多くの人が進む方向にしっかりと見つつ、寄せていける。
現在のアーティストには、そんな商売っ気も必要なんだろう。
マティスとフォーヴィズムの出現
フォーヴの仲間たち
親密なあるいは曖昧な空間
色とかたちの純粋化
そんな流れで展示は展開。あまりしっかりしたマティスの絵はなく
あくまでも「マティスの時代」という看板に偽りない展示。
並べてみると、ズラリと時代を越えた画家たちが。
最近、妙にルオーが大好き。世の中は、むしろ変えたいのだろう。
特に、ルオーのエルサレムとかのゴツゴツした中に色がマーブルに
眠る感じにたまらない深さを感じる。
常設展では、
安井會太郎の超モダンなデザイン画がよかった。
ちいさなサイズが壁面に並んでいく。そのリズムに打たれた。
2009年5月29日金曜日
取材に基づくとは「大地の子/山崎豊子」
もはや、本当にこんなことが?という感覚を
もってしまう平和ボケ世代。
実際に起こったことを取材を通して、
話の中に封じ込めていくのが山崎さんならば
あまりにあんまりな非情な事実。
残留孤児たちが受ける差別と実際に日本が行った非道が
バランスをもって天びんにかけられているならば
神様の天びんはあまりにも残酷に、子どもたちに
苦難を強いていく。何も解らずに自分の人生が
嵐の真っ只中にさらされている1950年代。
本当に命がけだったり、本気で何かに取り組む、
瞬間に僕らはどっしりと向き合っているだろうか?
中国に吹き荒れる、歴史の流れにもう翻弄されまくる
ひとりひとりの人間。無力でどうしようもないのに
自分の人生を諦めないすさまじい想い、志。
結局は、人生を形作っていく、人の絆。
それも、血とかそんな単純なものでは語れない
生きることの本質に迫る、結びつき。
最後に「わたしは大地の子だ」という主人公の一言の
あまりにも重いタイトルせりふに言葉を失った。
信念と自分の人生を自分で切り開く力を大事にしたい。
もってしまう平和ボケ世代。
実際に起こったことを取材を通して、
話の中に封じ込めていくのが山崎さんならば
あまりにあんまりな非情な事実。
残留孤児たちが受ける差別と実際に日本が行った非道が
バランスをもって天びんにかけられているならば
神様の天びんはあまりにも残酷に、子どもたちに
苦難を強いていく。何も解らずに自分の人生が
嵐の真っ只中にさらされている1950年代。
本当に命がけだったり、本気で何かに取り組む、
瞬間に僕らはどっしりと向き合っているだろうか?
中国に吹き荒れる、歴史の流れにもう翻弄されまくる
ひとりひとりの人間。無力でどうしようもないのに
自分の人生を諦めないすさまじい想い、志。
結局は、人生を形作っていく、人の絆。
それも、血とかそんな単純なものでは語れない
生きることの本質に迫る、結びつき。
最後に「わたしは大地の子だ」という主人公の一言の
あまりにも重いタイトルせりふに言葉を失った。
信念と自分の人生を自分で切り開く力を大事にしたい。
2009年5月21日木曜日
押し切る受け流す「五月大歌舞伎」@歌舞伎座
見た演目は次の通り
暫(しばらく)
寿猩々(ことぶきしょうじょう)
手習子(てならいこ)
加賀鳶(かがとび)
まあ、勉強中なのでまるで演目を見たところで
見所とかもよく分からない。正直でたとこ勝負。
「暫」は主役で出てくるのは海老蔵。
もう十分に準備されたところに、いよいよ登場!
という非常においしい話で、まさに花形向きの演目。
なんだか非常にオレ様で、それは歌舞伎をしていても
十分ににじみ出てて、もう鼻につくんだけど、
それでも見入ってしまうキャラの濃さ。声のよさ。
なんか動くだけで空気が振動するスゴさ。
何が悪いと、力で押し切る美しさ。
あとは、バカみたいにデカイ衣装で十分に邪魔なんだけど
それを着るに値する主役なんだ!ってことを
みんなが認識するには非常に有用な装置で
時に常識をはるかに越えちゃうことも大事なことなんだと
小さくまとまる自分を反省する。
「加賀鳶」は悪党の話なんだけど、菊五郎という人が
主役をやっていて、まあ、のらりくらりと超脱力なんだけど
心がふととらわれて、なんなんだ?この人と思ったら、
名人なんだそうだ。すごく上手な人らしい。
もうね、ひろいのに、まるで気張らない。
ちょっと言っちゃおうかな、みたいにぽろっと言葉を
発したりするんだけど、それが絶妙なのね。
客に力を受け流して、全部力に変える合気道みたいな
歌舞伎だった。最後のだんまりというらしいんだが
暗闇コントみたいなところは、残像が見えたもんなあ、
ゆっくりすぎて。
この2つの主役の違いに、大満足でした。
寿猩々(ことぶきしょうじょう)
手習子(てならいこ)
この2つを楽しむまでには
まだまだ自分の目は肥えていないのでした。
たくさん見て、心にふれるようになるといいなあ。
みどころを松竹のHPから転載。
一、歌舞伎十八番の内 暫(しばらく)
鶴ヶ岡八幡宮に、清原武衡(左團次)が鹿島入道震斎(翫雀)、
那須九郎妹照葉(扇雀)を始め、
大勢の家臣(市蔵・亀蔵・男女蔵・亀三郎)たちを引き連れて現れます。
そこへ加茂次郎(友右衛門)が、桂の前(門之助)や
宝木蔵人(家橘)、局常盤木(右之助)のほか、
自らの兄弟(亀寿・萬太郎)たちと参詣にやって来ます。
すると武衡は加茂次郎の咎を責め、
成田五郎(権十郎)に首を刎ねるよう命じます。
その時「しばらく」と声がかかり、
鎌倉権五郎(海老蔵)が駆け付けます。
やがて武衡の悪事を暴いた権五郎は、
紛失していた宝物も小金丸(巳之助)の働きによって取り戻し、
意気揚々と引き上げていくのでした。
荒事の魅力溢れる舞台をお楽しみ下さい。
二、寿猩々(ことぶきしょうじょう)
酒を好物とする猩々(富十郎)が、
親孝行な酒売り(魁春)のもとに現れ、
今日も酒を所望します。
そして酒に酔う猩々は、嬉しそうに舞い始めます。
能をもとにした作品で、重厚な色合いの義太夫舞踊です。
手習子(てならいこ)
春の野辺に、手習いから戻って来たお駒(芝翫)が通りかかり、
いろは歌に合わせて可憐に踊っていきます。
長唄ならではの華やかさ溢れる舞踊です。
対照的な舞踊を続いて上演します。
三、盲長屋梅加賀鳶 加賀鳶(かがとび)
加賀鳶と定火消しの間で喧嘩が起り、
日蔭町の松蔵(梅玉)を始め、雷五郎次(左團次)、
春木町巳之助(三津五郎)、御神輿弥太郎(團蔵)、魁勇次(松緑)、
昼ッ子尾之吉(菊之助)、虎屋竹五郎(海老蔵)が勢揃いしますが、
天神町の梅吉(菊五郎)がこれを止めて事なきを得ます。
一方、悪党の竹垣道玄(菊五郎)は、
女房のおせつ(東蔵)とその連れ子のお朝(梅枝)を、
按摩仲間のお兼(時蔵)と共に虐げていますが、
お朝が伊勢屋の主人から小遣いを貰ったことを聞き、
ある悪巧みを考え付きます。
そして道玄はお兼と一緒に伊勢屋与兵衛(彦三郎)を
強請りに出かけますが…。
河竹黙阿弥が五世尾上菊五郎のために
書き下ろした世話物の名作をお楽しみ下さい。
暫(しばらく)
寿猩々(ことぶきしょうじょう)
手習子(てならいこ)
加賀鳶(かがとび)
まあ、勉強中なのでまるで演目を見たところで
見所とかもよく分からない。正直でたとこ勝負。
「暫」は主役で出てくるのは海老蔵。
もう十分に準備されたところに、いよいよ登場!
という非常においしい話で、まさに花形向きの演目。
なんだか非常にオレ様で、それは歌舞伎をしていても
十分ににじみ出てて、もう鼻につくんだけど、
それでも見入ってしまうキャラの濃さ。声のよさ。
なんか動くだけで空気が振動するスゴさ。
何が悪いと、力で押し切る美しさ。
あとは、バカみたいにデカイ衣装で十分に邪魔なんだけど
それを着るに値する主役なんだ!ってことを
みんなが認識するには非常に有用な装置で
時に常識をはるかに越えちゃうことも大事なことなんだと
小さくまとまる自分を反省する。
「加賀鳶」は悪党の話なんだけど、菊五郎という人が
主役をやっていて、まあ、のらりくらりと超脱力なんだけど
心がふととらわれて、なんなんだ?この人と思ったら、
名人なんだそうだ。すごく上手な人らしい。
もうね、ひろいのに、まるで気張らない。
ちょっと言っちゃおうかな、みたいにぽろっと言葉を
発したりするんだけど、それが絶妙なのね。
客に力を受け流して、全部力に変える合気道みたいな
歌舞伎だった。最後のだんまりというらしいんだが
暗闇コントみたいなところは、残像が見えたもんなあ、
ゆっくりすぎて。
この2つの主役の違いに、大満足でした。
寿猩々(ことぶきしょうじょう)
手習子(てならいこ)
この2つを楽しむまでには
まだまだ自分の目は肥えていないのでした。
たくさん見て、心にふれるようになるといいなあ。
みどころを松竹のHPから転載。
一、歌舞伎十八番の内 暫(しばらく)
鶴ヶ岡八幡宮に、清原武衡(左團次)が鹿島入道震斎(翫雀)、
那須九郎妹照葉(扇雀)を始め、
大勢の家臣(市蔵・亀蔵・男女蔵・亀三郎)たちを引き連れて現れます。
そこへ加茂次郎(友右衛門)が、桂の前(門之助)や
宝木蔵人(家橘)、局常盤木(右之助)のほか、
自らの兄弟(亀寿・萬太郎)たちと参詣にやって来ます。
すると武衡は加茂次郎の咎を責め、
成田五郎(権十郎)に首を刎ねるよう命じます。
その時「しばらく」と声がかかり、
鎌倉権五郎(海老蔵)が駆け付けます。
やがて武衡の悪事を暴いた権五郎は、
紛失していた宝物も小金丸(巳之助)の働きによって取り戻し、
意気揚々と引き上げていくのでした。
荒事の魅力溢れる舞台をお楽しみ下さい。
二、寿猩々(ことぶきしょうじょう)
酒を好物とする猩々(富十郎)が、
親孝行な酒売り(魁春)のもとに現れ、
今日も酒を所望します。
そして酒に酔う猩々は、嬉しそうに舞い始めます。
能をもとにした作品で、重厚な色合いの義太夫舞踊です。
手習子(てならいこ)
春の野辺に、手習いから戻って来たお駒(芝翫)が通りかかり、
いろは歌に合わせて可憐に踊っていきます。
長唄ならではの華やかさ溢れる舞踊です。
対照的な舞踊を続いて上演します。
三、盲長屋梅加賀鳶 加賀鳶(かがとび)
加賀鳶と定火消しの間で喧嘩が起り、
日蔭町の松蔵(梅玉)を始め、雷五郎次(左團次)、
春木町巳之助(三津五郎)、御神輿弥太郎(團蔵)、魁勇次(松緑)、
昼ッ子尾之吉(菊之助)、虎屋竹五郎(海老蔵)が勢揃いしますが、
天神町の梅吉(菊五郎)がこれを止めて事なきを得ます。
一方、悪党の竹垣道玄(菊五郎)は、
女房のおせつ(東蔵)とその連れ子のお朝(梅枝)を、
按摩仲間のお兼(時蔵)と共に虐げていますが、
お朝が伊勢屋の主人から小遣いを貰ったことを聞き、
ある悪巧みを考え付きます。
そして道玄はお兼と一緒に伊勢屋与兵衛(彦三郎)を
強請りに出かけますが…。
河竹黙阿弥が五世尾上菊五郎のために
書き下ろした世話物の名作をお楽しみ下さい。
2009年5月19日火曜日
ひとりひとりの気持ち「関数ドミノ/イキウメ」@赤坂レッドシアター
軽いSFミステリーな感じが本当に世の中流行ってる。
誰に聞いても東野圭吾が好き!みたいな風潮。
ちょっとした超常現象があって、
そこに意外などんでん返しがあって、それを待つ。
話はすごくよく出来てる。
ドミノって、何かを望んだら、自然と世の中が動いて
その人の希望どうりのことが起こる人のこと。
ヒトラーとかもそんな人で、権力を手にするまで
何一つ非合法なことなんかしていないと
舞台中に高らかに語られたりする。日本って平和。
で、日本って平等で自由なのね、病的に。
話の筋とは別にひとりひとりの人生の方が
よっぽど気になってしまうのが最近のこの手の
舞台の残念なところ。
いかに謎解きを鮮やかに見せるかに集中していくと
どうも、ひとりひとりの人生が置き去りになる。
しかたないことかもしれないけれど、惜しい。
人が超常現象に出逢ったときに、狂っていく、
寄りかかっていく、そんなキモチの弱さが端的に
一気に描かれていて、怖かった。
周りをみてばかりいると、どうしても忘れる
自分自身の核みたいなものがある。
最終的に周りのことしか語らないのは
あまりにも悲しいし、生きている実感がなくなって
そんな人が大挙して出ている舞台に
まさに今の時代を感じたりするものだ。
誰に聞いても東野圭吾が好き!みたいな風潮。
ちょっとした超常現象があって、
そこに意外などんでん返しがあって、それを待つ。
話はすごくよく出来てる。
ドミノって、何かを望んだら、自然と世の中が動いて
その人の希望どうりのことが起こる人のこと。
ヒトラーとかもそんな人で、権力を手にするまで
何一つ非合法なことなんかしていないと
舞台中に高らかに語られたりする。日本って平和。
で、日本って平等で自由なのね、病的に。
話の筋とは別にひとりひとりの人生の方が
よっぽど気になってしまうのが最近のこの手の
舞台の残念なところ。
いかに謎解きを鮮やかに見せるかに集中していくと
どうも、ひとりひとりの人生が置き去りになる。
しかたないことかもしれないけれど、惜しい。
人が超常現象に出逢ったときに、狂っていく、
寄りかかっていく、そんなキモチの弱さが端的に
一気に描かれていて、怖かった。
周りをみてばかりいると、どうしても忘れる
自分自身の核みたいなものがある。
最終的に周りのことしか語らないのは
あまりにも悲しいし、生きている実感がなくなって
そんな人が大挙して出ている舞台に
まさに今の時代を感じたりするものだ。
2009年5月12日火曜日
それぞれの幸せの想い「Story of … カルティエ クリエイション~めぐり逢う美の記憶」@東京国立博物館・表慶館
目がくらむようなキラキラと、
みたこともないような造形のセンス、
うらやましくなるような細部へのこだわりに、
時代を越える人をひきつける力。
まあ、とにかくカルティエのクリエイションのすごさを体感。
バックグランドにある教養とかを感じることが出来るのが
ハイジュエリーのすごみだなあといつも思う。
見た瞬間に、客も作り手も何かのお話を嗅ぎ付けることが
出来る幸せな共犯感。
そんな、ともに何かを仕掛けることができるベーシックな
裏打ちを自分も持ちたいと願い、精進する。
ジュエリーがなぜこんな形になったのかとか
ジュエリーがなぜこの人の手元に渡ったのかとか
ひとつひとつに秘められたお話がまた濃厚で
図録をじっくり読むだけで相当楽しめる。
ワニをカルティエの工房に連れてきて
「早くしないと大きくなるわ」と言い放って、
ワニ型のネックレスを作らせた女性の話とか
家中の宝石をあらいざらいかき集めて、
全部カルティエにリデザインさせたインドのマハラジャの話。
パリの街を飛んだ飛行船乗りが発注したはじめての腕時計話。
超高級なものの裏にある豊かな人生、幸せも不幸も含めて。
にしても、グレース・ケリー超キレイ。
本当に宝石がキレイに見えて、いい展示だった。
みたこともないような造形のセンス、
うらやましくなるような細部へのこだわりに、
時代を越える人をひきつける力。
まあ、とにかくカルティエのクリエイションのすごさを体感。
バックグランドにある教養とかを感じることが出来るのが
ハイジュエリーのすごみだなあといつも思う。
見た瞬間に、客も作り手も何かのお話を嗅ぎ付けることが
出来る幸せな共犯感。
そんな、ともに何かを仕掛けることができるベーシックな
裏打ちを自分も持ちたいと願い、精進する。
ジュエリーがなぜこんな形になったのかとか
ジュエリーがなぜこの人の手元に渡ったのかとか
ひとつひとつに秘められたお話がまた濃厚で
図録をじっくり読むだけで相当楽しめる。
ワニをカルティエの工房に連れてきて
「早くしないと大きくなるわ」と言い放って、
ワニ型のネックレスを作らせた女性の話とか
家中の宝石をあらいざらいかき集めて、
全部カルティエにリデザインさせたインドのマハラジャの話。
パリの街を飛んだ飛行船乗りが発注したはじめての腕時計話。
超高級なものの裏にある豊かな人生、幸せも不幸も含めて。
にしても、グレース・ケリー超キレイ。
本当に宝石がキレイに見えて、いい展示だった。
2009年4月28日火曜日
信念なんて報われぬ「沈まぬ太陽1〜5/山崎豊子」
正しく生きることと豊かに生きることが
必ずしも一致しないこの現代を膨大な取材から
あぶり出して、小説に仕立て上げる。
その作業は絶望的に夢なんてなかったりする
会社内の権力闘争の様を浮き彫りにしていく。
自分の信じる道を進めば進むほど
仕事の環境は厳しくなり、閑職においやられ
家族とは離ればなれになり、手の中には何も残らない。
本当に切ない。
海外赴任先から日本に戻る奥さんを見送るシーンが
あるんだけど、すごい雨の中、自分の背中がビショビショに
なって、子供を飛行機のタラップまでぬれないようにする姿を
見て、思わず名前を呼ぶのだけれど、雨が強くて奥さんには
聞こえないのね。
もう、声でないわ。切なくて。
正しいことしてんのに。
いい人、ちゃんとした人間関係はすべて手元に残るけれど
それを豊かな人生の作物だと言い切るには
あまりにも恵まれなさすぎて、現実的にすぎて、つらい。
一巻から五巻まで一気読み。
必ずしも一致しないこの現代を膨大な取材から
あぶり出して、小説に仕立て上げる。
その作業は絶望的に夢なんてなかったりする
会社内の権力闘争の様を浮き彫りにしていく。
自分の信じる道を進めば進むほど
仕事の環境は厳しくなり、閑職においやられ
家族とは離ればなれになり、手の中には何も残らない。
本当に切ない。
海外赴任先から日本に戻る奥さんを見送るシーンが
あるんだけど、すごい雨の中、自分の背中がビショビショに
なって、子供を飛行機のタラップまでぬれないようにする姿を
見て、思わず名前を呼ぶのだけれど、雨が強くて奥さんには
聞こえないのね。
もう、声でないわ。切なくて。
正しいことしてんのに。
いい人、ちゃんとした人間関係はすべて手元に残るけれど
それを豊かな人生の作物だと言い切るには
あまりにも恵まれなさすぎて、現実的にすぎて、つらい。
一巻から五巻まで一気読み。
2009年4月21日火曜日
全感覚を使え!「万華鏡の視覚」@森美術館
ティッセン・ボルネミッサ現代美術財団コレクションより。
ハプスブルク家のプライベートコンテンポラリーアート発注もの。
持つものと持たざるものをリアルに感じる展覧会の景色。
こんなもの、家に持ってこられても困るサイズ、スケール。
ちょっと壁に掛けられるようなものはまるでなく、
いちいち身体全身サイズ。そして落ち着く類のものはなく、
感覚を全部解放して、毛穴からすら入ってくる刺激を
とにかく取り込む感じの展示。いやあ、「美」というよりは、
本当に「刺激物」の印象の強い品物がずらり。
ケリス・ウィン・エヴァンスの蛍光灯柱とか直視できないくらい
ギラギラと身体に悪そうな光を放っているし、
カールステン・フラーの「Y」という作品とかは
自分の身体のまわりを白熱灯がぐるぐるまわってて
その様子を鏡でみたりすると、どこかに吸い込まれているような
妙な浮遊感を味わえる。
ロス・カルピンテロスの壁が砕け散る瞬間を、
実際のブロックで再現すたやつなんかは、
時間が止まった瞬間を自分が動ける状態で感じることの
違和感をいやおうなく押し付けてくる。
イエッペ・ハインの映す物体とかは、ジム・ランビーの
クラクラする文様と自分自身の姿が球形の中に閉じ込められる
お得なような感覚も。
マシュー・リッチーっていう人の色使いとか素材感とか
空間への絵の張り出し方とかが好きだった。あまり触れたことの無い人。
グオ・フェンイーっていう人の描いた絵は
執念の赤ボールペン画。もうひたすら線をひきまくる向こう側の世界。
彼に何が見えていたのか気になる。
図録ではまるでダメな、行かないと不可能な体験ばかりで
美術館冥利につきると思った。
ハプスブルク家のプライベートコンテンポラリーアート発注もの。
持つものと持たざるものをリアルに感じる展覧会の景色。
こんなもの、家に持ってこられても困るサイズ、スケール。
ちょっと壁に掛けられるようなものはまるでなく、
いちいち身体全身サイズ。そして落ち着く類のものはなく、
感覚を全部解放して、毛穴からすら入ってくる刺激を
とにかく取り込む感じの展示。いやあ、「美」というよりは、
本当に「刺激物」の印象の強い品物がずらり。
ケリス・ウィン・エヴァンスの蛍光灯柱とか直視できないくらい
ギラギラと身体に悪そうな光を放っているし、
カールステン・フラーの「Y」という作品とかは
自分の身体のまわりを白熱灯がぐるぐるまわってて
その様子を鏡でみたりすると、どこかに吸い込まれているような
妙な浮遊感を味わえる。
ロス・カルピンテロスの壁が砕け散る瞬間を、
実際のブロックで再現すたやつなんかは、
時間が止まった瞬間を自分が動ける状態で感じることの
違和感をいやおうなく押し付けてくる。
イエッペ・ハインの映す物体とかは、ジム・ランビーの
クラクラする文様と自分自身の姿が球形の中に閉じ込められる
お得なような感覚も。
マシュー・リッチーっていう人の色使いとか素材感とか
空間への絵の張り出し方とかが好きだった。あまり触れたことの無い人。
グオ・フェンイーっていう人の描いた絵は
執念の赤ボールペン画。もうひたすら線をひきまくる向こう側の世界。
彼に何が見えていたのか気になる。
図録ではまるでダメな、行かないと不可能な体験ばかりで
美術館冥利につきると思った。
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