2008年4月17日木曜日

日本の歪み「ポップ道1960Sー2000S」@MOT

こんな展示。

「ポップ道 1960s-2000s」は、現代美術の流れの中に、
見え隠れしながらも絶えず作用し続ける要素を「ポップ」と総称し、
東京都現代美術館のコレクションによってご紹介するものです。

その源流はもちろん、戦後大きく人々の生活を支配するようになった
大衆文化を、憧れや批判など様々な視点から切り取った
「ポップ・アート」に求められるでしょう。
しかしその後、作家たちが眼差しを向ける「ポップ」の
射程は、時に相反するものまで取り込みつつ、様々に揺れ動きます。

日常生活に蔓延する「アメリカ」から、
その底に貼りついて消えることのない「日本」へ。

大衆から、その中に埋没せざるを得ない個人のあり方へ。

ここから生み出された作品群は、私たちの日常を形作っている
諸条件を見つめ直すものであり、「現在の私」を映し出す
鏡であるともいえるでしょう」


そうねえ。そうだよねえ。もっともだよねえ。

なんかずっと借り物の何かを着ているような

変な感覚があることは間違いなくて

しかも、日本には変にちゃんと占領されていない

半端な独立した感じもあって、アートって世界には

その感覚は本当に根深い。

ポップなんて言われると、もうその世界観そのものが

なかったはずなのに、今ではもてはやされて

ポップなくしては、グッとこないかのような

雰囲気さえある、ものだ。

会田誠の「たまゆら」「ひのまる」は本当にいつもみても

今の魂の奥底に病みきった日本を感じて

心が痛むし、そしてどこまでも美しい。

奈良さんのペインティングも、こういう文脈で置かれると

不思議に人間が立ってくる感じがしてしまう。

どうしようなく、なんとなく怒る。

でも、大きな声が出さずに、怒る。

その形が結局、ポップって、なんだか深すぎる結果に。

そして、岡本太郎の「明日の神話」

超巨大。そして、原爆に対する想いに、

大きさを必要として、小さくはなりえない

逃げ場のなさがまた、根深い問題を感じ

どうしようもない。あの絵の30メートル以上のサイズに

どんな新しさがあるのかといわれればない。そんなもん。