2009年10月6日火曜日

地中だから光を感じる「地中美術館」@直島

まったく建物の姿が見えない地中美術館。

中に入っていくと、広がる安藤忠雄ゾーン。

自然の中にある、この人の建築は本当に美しい。

やっぱり、コンクリートの壁の向こうにあるものは

断然の自然であるからこそ、あのつるつるコンクリートが

映えるのだといつもいつも思う。東京のは嫌い。

そして、ぐるぐると回る回廊や、斜めに傾いた壁、

自分の目線の部分だけが切り取られた壁など、

様々な形で自分の感覚が日常から剥ぎ取られていく。

そして、なんだか自分の感性がリフレッシュした先に

美術作品が。暗い闇の先に、光が冴える作家のわずかばかりの

作品が贅沢に展示。どれも身体まるごと浸る形のもの。

クロード・モネの睡蓮は、白い壁と白いタイルに囲まれた

真っ白な部屋に掲げられ、絵からあふれ出す色を体感できる。

絵のふちが空間に溶け出して、自分がそこにぐいっと吸い込まれる

不思議な気持ち。空気そのものが、絵に支配されていく。

それから、ジェームス・タレル。オープン・スカイは相変わらず

見たことあるはずの空の青を、まったく見たこともない澄んだ青に

変えてくれる。

もうひとつのオープンフィールドは、光の中に身体を沈めていく

ような作品で、夕焼けのような真っ赤な光に、突っ込んでいく、

自分の身体もこんな光の粒粒で出来ていて、溶け込んで気持ちがいい

そんな未知の実体験が出来た。

なにより、写真とまったく違って、行ってよかったと思ったのは

ウオルター・デ・マリア。バカデカイ黒い玉のある巨大な部屋の

周囲には27体の金箔の塗られた彫刻が整然と並んでいる。

そして、空が抜けている。空の光は刻々と変わり、玉に映る金色も

空色も一時も止まっていない。

そして、全体が大きな階段で出来ている。登ったり下ったり。

座ったり、立ったり。時間の流れをひしひしと自分の中で

くっきりと感じることのできる神々しい皮膚感覚。

あんまり聖的なものって感じないんだけど、もうちょっと泣きそうだった。

神様、いるなあと思った。

あとは、この今という時間は、昔とも未来ともつながっているなあと

センチメンタルな気持ちになった。

地中から出ると、そこにあったのは水平線だった。

また、これが、時間を感じる、

昔昔の地下から今、この瞬間が過ぎる地表に出たのに、

昔から変わらない水平線が見えるっていうあたりのロマン。

すばらしいです。

分からないし想像できないし「来来来来来来/劇団本谷有希子」@本多劇場

本当に女子というものがそうかは分からないけれど

少なくとも身近にいる女子たちが感じている

世の中への不条理が、濃縮されて、搾り出されて、

どろどろと溶け出しているような舞台だった。

あんな情念は、わからないし、想像もできない。

自分のあり方を見失っている人々が、東京から離れた

田舎に集団で生活をしていて、もうかなりの虐げられた

生活をしているんだけれど、それでも自分のあり方とか

居場所みたいなものを失わないならば、そのことを

幸せに思えてしまう、思わないと壊れてしまう、

そんな女子たちがごっそり出てくる。次から次へと出てくる。

一番まともそうなやつでさえ、平気でうんこを手で掃除したりする。

人を狂ったほどに、ののしったりする。ガンガン叩いて虐待したりする。

だんなの暴力に笑いながら耐えていたりする。

みんなの想いは、ひとつに感じる。

わたしはここにいてもいい。

それを認めてもらえれば、どんなに生活が悲惨でもなんだか耐えられる。

女子の思い込み力というか、なんというか。

男子はあまりそういうのはない。特に今の男子は。

だから、もしかすると、軟弱なのかもしれない。

意思というか、思いが現実を凌駕していかない、ほどほどだから。

まあ、想像つく範囲でしか認められない。生活できない。

見ていて、悲惨だな、女子の世界とも思ったが、

これがあるから今は女子の方が骨があり、前に進んでいくパワーに

満ちているのだろうと思った。

気持ちは残る「コクーン歌舞伎/桜姫」@シアターコクーン

システムとしては理解しているんだけど

死んだ人の怨霊が…という考え方が、能やら歌舞伎やらには

しっかりあって、この世の中はそういったものがあるから

とってもエモーショナルな感動的な、ある意味恐怖なことが

起こって面白いという、ことなのかな?

身体の感覚として、ああ、そうだなあ、それは

こわくて、かつ面白いなあなんて気付いたことはなかったんだけど

今回、現代版と歌舞伎の桜姫を見て、なんだか一番考えたのは

そこだった。人が消えるということの不可思議を、生きている

人間の気持ちとうまく結びつけて進んでいくお話は、

あの世とこの世のつながりをイメージしないと何の深まりも

見せない嘘っぱちなものになってしまうけれど、

愛し合う中で身を投げたり、生き残ってしまったり、

それを悔いてみたり、喜んでみたり、非難してみたり、

結局、どうしようもない戻ることのできない時間の中で

感情が右往左往するのはたまらなく面白いなあと感じた。

現代版の方を見ただけだと思わなかったんだけど、

オリジナルの歌舞伎の方とあいまったときに

しみじみと考えさせられた。あとは、そういう世界を失っている

今っていう世界ってどうなのだろう?とか。

気持ちは逆にどんどん薄っぺらになっているのかも

しれないなあとふと思ってしまった。

それにしても、歌舞伎役者さんって、やっぱり上手い。

アドリブに近づいていけばいくほど、場数が違うからか、

型があるからか分からないけれど、妙に場にしっくりと

生きながらえる。なんか小笑いとかが異常にうまくはまる。

あの技はなんだ?あれ。

英語が分からない「ヴェニスの商人/プロペラ」@東京芸術劇場

なんかやたらに英語が分からないなあと思った公演だった。

また、最近視力がかなりへたってきていて

字幕も小さいもんだから、まあ見えない。

頭に刻み込まれた筋を追いながら見るも、

かなりシーン作りそのものがイメージに即した

アレンジが濃厚にされてるため、ときおり見失う。

観劇しながらところどころ脱落しながら

かろうじてついていくという不思議な体験。

芝居そのものは面白かった。野田秀樹が呼んだらしいんだけど

「らしい」というか非常に「動く」集団だった。

男ばっかりの集団で、手品っぽいこともあり、

手に楽器を持って奏でるアンサンブルっぽいこともあり、

ピエロのように飛び回る狂言まわしがいたり、

言葉にしちゃえば創意工夫?をガンガンおしてくる感じ。

それを深いテキストで支えていくというつくり。

ちょっとテキストが浮いている気もしたんだけど

英語取り残されてるから、確信がもてず。

もともとイギリスでは田舎の水車小屋を常小屋に

しているらしく、確かにそこの方が圧倒的に映えそうな

舞台だった。なんか、近代的なちゃんとしたハコに入ると

遊び心が浮いちゃって、荒く見えちゃう損もあるなあと。

みなさん、ちゃんと制度が身体に乗っている感じもあって

しっかり遊ぶという空気でのびのびとはしなかったけれど

でも、見たことないヴェニスの商人で楽しめた。