名和さんといえば、粒粒ビーズなんだけど、
「L_B_S」はLiquid、Beads、Scumの頭文字を取ったものらしい。
beadsは、よく見た粒粒ビーズ。今回が鹿がまるごと粒粒に
覆われている。なんか表面が溶け出して、空気とのヘリが
変化しているみたいで、妙に気持ち悪い。いい意味で。
こんな感覚になったことは、名和さんのを見てて初めてで
やはりフルフィギュアだと見る方の感じ方も変わるなあと思った。
ちょっとジョジョみたいな、北斗の拳的な形の変わり方ね。
で、Scumはこんなことらしい。(人の文章から抜粋)
ビーズで覆うPixCellシリーズの作品になりえなかった素材の表面に、
ポリウレタン樹脂を特殊な手法で吹き付けて制作されるという
Villus(柔毛の表皮)は、ビーズのように透明感のある素材と違い、
内部のモノはまったく見えない。
その輪郭から「仏像」あるいは「手榴弾」かな、と推測はできるが、
内部にその物体が本当に入っているのかわからない。
それは、「仏像かもしれない」し、「手榴弾かもしれない」。
一様に同じ皮膜(Villus)をまとったモノたちは、
視覚的な形状からのみ、個性を主張する。
ふわふわした皮膜を一枚かぶるだけで
物の個性というのは、ここまで失われるのかと、
ちょっと意外にも思う感じ。
たしかに影絵とかでも、はっきり分かるものって意外にない。
モノは、今ある形の輪郭をしっかりと持ってこそ
はじめて認識ができるものなんだなあと思った。
細部までちゃんと、そのものであることが大事とは
身につまされる感じがした。
で、Liquid。シリコンオイルに耐えることなく
泡が生まれては消え、生まれたは消える。
形ができては失われていくその連続を見つめていると
気が狂いそうになる。
なんかもこもこもこもこ生まれてくるのって
ゾンビみたいな感じがして、妙にざわざわする。
命が半端な形に、おもちゃに作られている感じは
勝手にこっちが思ったことだけど、そんな吐き気がした。
いい意味で。
2009年7月26日日曜日
田舎もんとは思われたくない!「エカテリーナ2世の4大ディナーセット」@東京都庭園美術館
こんな展示。
女帝エカテリーナ2世(1729-1796)の時代、
ロシア宮廷では君主の威厳と崇高さを演出する工夫が
様々に試みられました。
女帝は衣食住にわたって「エルミタージュ・エチケット」
と呼ばれる礼儀作法を厳格に規定し、宮廷儀礼の形成に
大きな影響を与えました。
文化的な成熟度を内外にアピールする場でもあった晩餐会では、
その場を構成する全てがひとつの芸術と見なされ、
料理はもちろん、テーブルセッティングや室内装飾、
列席者の衣装に至るまで、当時最高の質と内容が求められていました。
女帝は特別な招待客のために、西欧各国の王立窯や最新の窯に
特別なディナー・ウェアを発注し、卓上を豪奢かつ華麗に彩らせました。
当時たいへん貴重であった白く輝く磁器を贅沢に使用した晩餐会は、
女帝の財力や権勢を誇示する絶好の機会でもあったからです。
本展では、日本初公開となる
ベルリン王立窯の《ベルリン・デザート・セルヴィス》や、
愛人ポチョムキン公のために注文された
セーヴル窯の《カメオ・セルヴィス》など、
エルミタージュ美術館の所蔵品より
4つのディナー・セットのコレクションを選び、
女帝エカテリーナ2世の生涯と
華麗なる18世紀ロシア宮廷生活をご紹介します。
ひとつひとつに意味があるものっていいなあといつも思う。
ベースの知識があるから理解できるウイットって憧れる。
この食器にトルコ人がいるのは、
トルコ人を支配下にいれたお祝いだからとか
この食器に描かれているのは、憧れていた最先端のイギリスの景色だとか
いちいち生活にストーリーがある美しさ。いいなあ、豊かだなあ。
相手のことをどこまでも思いながら、とにかく田舎もんロシアが
ヨーロッパの国と対等に思ってもらいたくてもらいたくて
恋焦がれて、作っていった食器の数々はよい意味での
怨念がこもっていて、熱をおびていた。
もちろん、やっぱりいもっぽさが残るのは、どうしようもないんだけど。
なんだろう、どうしても、ごてごてしていくんだよねえ。
田舎の都会ナイズは。
引き算ができない。怖くて。
足して足して、まだ足りないと、足していく。都会っぽさを。
で、結果、田舎っぽく戻っていくという滑稽さ。
我が身を思うわ。
あとは、デザインの王道はやはり自然を煮詰めていくことで
今でも残り、きちんと戦うことができているのは、
花を死ぬ程見つめ直したデザインだったりするから面白い。
人間が生み出すことができる想像力の限界ってあるなあ。
自然のなかにしかない無限の線のあり方が生み出す
徹底的な美しさは不思議と心に残る。
庭では、しきりに鳩がキスしてた。あんなに動かずに
いちゃいちゃしてる鳩をはじめて見て驚いた。
女帝エカテリーナ2世(1729-1796)の時代、
ロシア宮廷では君主の威厳と崇高さを演出する工夫が
様々に試みられました。
女帝は衣食住にわたって「エルミタージュ・エチケット」
と呼ばれる礼儀作法を厳格に規定し、宮廷儀礼の形成に
大きな影響を与えました。
文化的な成熟度を内外にアピールする場でもあった晩餐会では、
その場を構成する全てがひとつの芸術と見なされ、
料理はもちろん、テーブルセッティングや室内装飾、
列席者の衣装に至るまで、当時最高の質と内容が求められていました。
女帝は特別な招待客のために、西欧各国の王立窯や最新の窯に
特別なディナー・ウェアを発注し、卓上を豪奢かつ華麗に彩らせました。
当時たいへん貴重であった白く輝く磁器を贅沢に使用した晩餐会は、
女帝の財力や権勢を誇示する絶好の機会でもあったからです。
本展では、日本初公開となる
ベルリン王立窯の《ベルリン・デザート・セルヴィス》や、
愛人ポチョムキン公のために注文された
セーヴル窯の《カメオ・セルヴィス》など、
エルミタージュ美術館の所蔵品より
4つのディナー・セットのコレクションを選び、
女帝エカテリーナ2世の生涯と
華麗なる18世紀ロシア宮廷生活をご紹介します。
ひとつひとつに意味があるものっていいなあといつも思う。
ベースの知識があるから理解できるウイットって憧れる。
この食器にトルコ人がいるのは、
トルコ人を支配下にいれたお祝いだからとか
この食器に描かれているのは、憧れていた最先端のイギリスの景色だとか
いちいち生活にストーリーがある美しさ。いいなあ、豊かだなあ。
相手のことをどこまでも思いながら、とにかく田舎もんロシアが
ヨーロッパの国と対等に思ってもらいたくてもらいたくて
恋焦がれて、作っていった食器の数々はよい意味での
怨念がこもっていて、熱をおびていた。
もちろん、やっぱりいもっぽさが残るのは、どうしようもないんだけど。
なんだろう、どうしても、ごてごてしていくんだよねえ。
田舎の都会ナイズは。
引き算ができない。怖くて。
足して足して、まだ足りないと、足していく。都会っぽさを。
で、結果、田舎っぽく戻っていくという滑稽さ。
我が身を思うわ。
あとは、デザインの王道はやはり自然を煮詰めていくことで
今でも残り、きちんと戦うことができているのは、
花を死ぬ程見つめ直したデザインだったりするから面白い。
人間が生み出すことができる想像力の限界ってあるなあ。
自然のなかにしかない無限の線のあり方が生み出す
徹底的な美しさは不思議と心に残る。
庭では、しきりに鳩がキスしてた。あんなに動かずに
いちゃいちゃしてる鳩をはじめて見て驚いた。
超すげえコントでアート「寛容のオルギア/ヤン・ファーブル」@彩の国さいたま芸術劇場
いやあ、すごかった。しびれた。感動した。
今の消費社会ってすごいねって話で、なんでもかんでも
おもしろがっちゃって、本当に僕らは大丈夫なのか?って
ゲラゲラ笑いながら考えて、もはや崩れてしまった
いろんな意味でのバランスをどうやって取り戻すのか?
はたまた、もう取り戻すことなんて出来ないのか?
って、またそれはそれで滑稽で・・・。
妊婦がショッピングカートに乗って洗剤を産んだり
キリストを売り出すためのミュージシャン化マネジメントとか
みんなで何回オナニーできるか大会とか
まずはファックって言って、文句をいってみようとか
そんなどうしようもないシーンなのに、
絶妙に美しく、なぜだか心にしみいるのね。すごい。
笑いってすごかったと、今までのヤン・ファーブルの
心に入ってこなさ加減を思うと、隔世の感。
欲望にひたすら飲まれ続ける毎日のなかで
テレビっていうハコについて、ヤン・ファーブルがいっていて
あれは、見てもらうためなら、タブーなく欲を利用し尽くすから
恐ろしいみたいな話をしていて、確かにと思う。
自分も、ただただ、見てもらうことを考える。
そして、刺激に麻痺していく。そんな側面がある。
麻痺した先に何があるのか?
まだ見て見たいという耐えない欲求がある。
今の消費社会ってすごいねって話で、なんでもかんでも
おもしろがっちゃって、本当に僕らは大丈夫なのか?って
ゲラゲラ笑いながら考えて、もはや崩れてしまった
いろんな意味でのバランスをどうやって取り戻すのか?
はたまた、もう取り戻すことなんて出来ないのか?
って、またそれはそれで滑稽で・・・。
妊婦がショッピングカートに乗って洗剤を産んだり
キリストを売り出すためのミュージシャン化マネジメントとか
みんなで何回オナニーできるか大会とか
まずはファックって言って、文句をいってみようとか
そんなどうしようもないシーンなのに、
絶妙に美しく、なぜだか心にしみいるのね。すごい。
笑いってすごかったと、今までのヤン・ファーブルの
心に入ってこなさ加減を思うと、隔世の感。
欲望にひたすら飲まれ続ける毎日のなかで
テレビっていうハコについて、ヤン・ファーブルがいっていて
あれは、見てもらうためなら、タブーなく欲を利用し尽くすから
恐ろしいみたいな話をしていて、確かにと思う。
自分も、ただただ、見てもらうことを考える。
そして、刺激に麻痺していく。そんな側面がある。
麻痺した先に何があるのか?
まだ見て見たいという耐えない欲求がある。
駄話「ボス・イン・ザ・スカイ/ヨーロッパ企画」@青山円形劇場
なんか全編、大人計画のアドリブ部分で出来ているような
ゆる会話で楽しめた。うむ、よく出来てる。
で、書こうと思っても、あるジェネレーションからは
絶対に書けないであろう、テイスト。
ドラゴンを退治して掃除する一団があって、
もうちょっとその仕事は、かつてかっこよかったはずなのに
今では時代遅れみたいになっていて、
悲しいかな、どんどんやる人も少なくなってて
熱意というよりは惰性で、ヒーロー性のある仕事を
続けているという、なかなか思いつきそうで
うまくはまらない枠組みを上手に使ってる。
感心。
いちいちこねたがうまい。印象。
大きい枠組みでの落としの作り方は、往年のナイロン。
そういう意味では、あらゆる90年代から00年代の
いいとこどりで出来ている雰囲気のお芝居だった。
ああ、なんか覚えておきたいネタ、結構あったのに。
すっかろ忘れている自分が悲しい。なんだっけなあ。
ゆる会話で楽しめた。うむ、よく出来てる。
で、書こうと思っても、あるジェネレーションからは
絶対に書けないであろう、テイスト。
ドラゴンを退治して掃除する一団があって、
もうちょっとその仕事は、かつてかっこよかったはずなのに
今では時代遅れみたいになっていて、
悲しいかな、どんどんやる人も少なくなってて
熱意というよりは惰性で、ヒーロー性のある仕事を
続けているという、なかなか思いつきそうで
うまくはまらない枠組みを上手に使ってる。
感心。
いちいちこねたがうまい。印象。
大きい枠組みでの落としの作り方は、往年のナイロン。
そういう意味では、あらゆる90年代から00年代の
いいとこどりで出来ている雰囲気のお芝居だった。
ああ、なんか覚えておきたいネタ、結構あったのに。
すっかろ忘れている自分が悲しい。なんだっけなあ。
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