2010年2月3日水曜日

イメージ戦略「古代ローマ帝国の遺産」@国立西洋美術館

なんかつかみにくいローマとかギリシアとか。

すごい大事な時代なのに、ちゃんと向き合ったことないから

いつもいつもふわっとして終わってしまう。

今回もたぶんかなりふわっとしていて、本当なら

もっともっと感激していいはずの展示かもしれないんだけど

なんだか良さが完全につかみきれない。

なんとはなしに感じたのは、やっぱりちょっとでも

生活が豊かになったなあと誰もが感じることができるのは

偉大なことで、それが統治の決定的な力になってるなあということと

もうひとつは、人心をつかむには、ポジションが大事だということ。

アウグストゥスだって「尊厳なる人」であり「第一人者」であり

イメージとして神々しく、権威のある人として君臨する下地を

ちゃんと作ったんだよねえ。神様に祝福されるイメージ図録なんかも

周到に準備したりなんかして。

あとは、意外と派手で、キャッチーなおうち。

タイルで張ってある屋根が真っ青だったり、

食事をしながらごろごろできる部屋の壁は真っ赤。

(なんでも吐くまで食べるって!
 その吐瀉物が流れるようにベッドが斜め!)

それから、その前庭には水色のキレイな泉があり、

大きな樹、色とりどりの花、さらには白い外壁、オレンジの屋根。

まあ、考えてみれば、イタリア。

そのころから、あの太陽が、キャッチーな明るい色を生んだのか

と思うとなんとも感慨深い。

あと思ったのは、細工ものって、アジアはやっぱりすごい。

ローマのみても、全然水準が違う。やっぱり大味なんだよなあ、なんか。

圧倒的に、細密度が違う。だから金細工とかすげえとか思わないのかも。

申し訳ないけど。

その旬の刺激「社会派すけべえ/毛皮族」@駅前劇場

ああ、見てしまったという感覚。

旬の時期を生きてしまったあとに訪れる

残酷などうにもならない時代。

きっと10年くらい前は、かなり刺激的だったのだろう。

でも、その刺激に人が慣れ、

その刺激を作り出すことに疲れた人たちが見せる

それはあまりにもしんどく、切なかった。

唄があまりにもヒドい。もともとウマさなんかない。

でも、グルーブは確かにそこにあったはずだった。

その勢いを感じて、気分がよくなったはずだった。

でも、無理に、その覚えている感覚を、リフレインしようと

もがいている風に感じてしまったステージは未完成にしか見えない。

でもなあ、当人たちも分からないんだよねえ、きっと。

どうしたらいいかなんて。

最近、よく思うのは、結局は何を大事にするかをしっかりと

見据えることなんじゃないかということ。

いろいろあるけど、ひとつ残るもの、譲れないものは何か?

唄もうまくなければ。当たり前のようにオッパイが出たりするし、

ドラマは当然、先が見えているか、変なこだわりの紆余曲折か、

そんな案配。

江森さんは、きっと面白いし、パワーもあるんだけど、

それに見合うというか。同じテンションで集団に参加している人が

あまりにも少ないのだろうなあ。

だから、塊として、ぐっとこないのだろうなあ。

現れるのは、結局は、覚悟。

竹内結子の抜けたところ「なくもんか」

主人公はハムカツ屋で、

もうそれはそれはハムカツ一筋で、

何も見えていないようでいて、

実は、そんな人ほどしっかりと先に

つながった生き方をしていたりするところが

本当によかったなあと思った。

話の筋とか大筋は分かっちゃってるけど

そんなことよりも大枠なところで

与えられた人生をきちんと生きようとするところは

なんだか今っぽいんだろう。

しかも愚痴とか言わずに、コツコツと仕方なく。

さして、夢を語ることなく、ある現実をただただ生きていく。

現在って、どうなの?

それにしても、長らくのお気に入りな

竹内結子の可愛さは何か?

憑き物が落ちるのかなあ、広末もこの人も。

スッとヒヤリとするキレイさが、際立ってくるものだ。

離婚とかすると役にリアリティが増すとか

いうけれど、そんなことはたぶんまるでどうでもよくて

心持ちで度胸がすわる分、波立つ部分なく、

凛として美しかったりするのだろう。

何がすっとおちるのか?男子としては気になるところだ。

整形して、竹内結子並みになるデブの女子って

いそうもないと思うけど、実際にいるのが世の中。

芸能人だってみな、おそろしい変貌を遂げていくものだ。

おそるべし、現代技術。