2009年7月9日木曜日

巨大一点もの「流れる水/塩田千春」@発電所美術館

その昔、水力発電所だった場所を美術館に変えた

とんでもなく豪華な空間が富山にあって、

そこで塩田千春さんがインスタレーションをやるという

またまた期待がふくらむ、キャスティング。

他には常設も何もないんだけど、とにかく行ってみた。

すごかった。

何せ、この発電所美術館が持つ磁場がすごい。

もはやスケール感が日本ではない。なんかちまちましてない。

せこくない。どーんとしてる。

だから、訪れた方も、ただただゆったりしたキモチになれる。

ヨーロッパみたい、富山なのに。

河岸段丘っていう地理で習った懐かしい地形を利用した

水力発電所の内部空間がまるごと美術館。

ものすごい天井高のところに、吊られ、ひしめいている、

病院のベッド。「命の水」というテーマで作られた作品は、

そのベッドでつくられた川にもみえるオブジェに、

大量の水がジャージャーと降り注ぐ。

そのザーという音が無機質な空間に響き渡って、

心の中をざわつかせる。

命の源の音でもあるし、

不安になったときに聞く音でもあるし、

ひんやりと落ち着く音でもある。

オブジェにはねる水、つたう水、落ちる水、

すべてが血のようにも見えて、

命が連綿とつながって、時間をつむいでいく様。

キレイにはまるインスタレーションって滅多にみないんだけど

ここのはすごかった。いやあ、すさまじかった。

何も観光地のような場はないけれど

それに喫茶店とかも、なんかよい。

豊かにゆっくりと静かに落ち着きを取り戻せる、

そんな空間。

ただ、窓が開いている。風が吹き抜ける。

ゆっくりと陽が傾く、時間を感じる。

そういう感覚も大事じゃないのかと思う。

感覚が死んでいるのか?「ダイアローグ・イン・ザ・ダーク」@青山

こんなに人間の感覚が麻痺しているのか?

もしくは、

こんなに人間の感覚というのは可能性に満ちているのか?

日常というものが、なにひとつ確かなことなどないことを

まざまざと感じさせてくれる出し物だった。

真っ暗な中を10人前後のパーティーで進んでいく。

それをアテンドするのは、視覚障害者の人。

驚くことに、彼らの真っ闇を動くスピードは半端ない。

ワープしたみたいに空間のあちこちに瞬間移動する。

というよりは、自分たちがまったく動けなくなる。

もう前後左右はもちろん、上下もあやしくなって

空間感覚というものが粉みじんに破壊される。

部屋のひろさもひろがりも失われる。

そんな100%まっくらな空間の中に

様々なテーマの世界がつくられている。

森を行き、川を行き、田舎の家をたずね、

バーで飲み物さえいただける。

そこで触った木の葉や幹の様子は、まったく別物。

生きていると感じる葉脈のもっこり感。

守っていく意志を感じる幹表面のごりごり感。

足の裏が生き返る不思議な感覚。歩くということは

地面と接することで、そこには楽しみがあると知る瞬間。

水とかゆらぐ音とかいいよねえとかいうけど

心底音だけ聞く体験すると、複雑に音がからみあっている。

ブランコとか乗ってみると、ちょっと無重力体験みたいだし、

家にある様々な電化製品も触りながら当てていくと

いかに機能に特化していて、しかも自然の中には

ありえないものを自分たちが作り出しているかがわかる。

なにせ、かたくて、冷たい。

石とかは不思議とちょっとあったかい感じ、残ってる。

プラスチックとは、ぜんぜん違うんだよねえ。

飲み物とか飲んでみると、身体に入っていく、

口の中で味がしみわたっていく感じって、

まさに全身で味わうみたいな生き返る雰囲気。

それにしてもすごい体験だった。

考えて形にした人、すごいわ!このイベント。

さらに、社会的なアプローチもよろしくて、

できるだけ恒久的に行うことで、視覚障害者の

安定的な雇用も目指しているらしい。

しかも、セカンドベストな職ではなくて、

みんながやりたがる誇りを持った仕事を作りだす

という。

うーん。いい企画だ。

思い出したのだった「春のめざめ/劇団四季」@自由劇場

オフブロードウエイからブロードウエイへ

かけあがった話題作。春のめざめ。

ということで、まあ、これは「問題作」とも

いわれているので、見ておかなくてはと行きました。

劇団四季。春のめざめ。

だが…思い出した。これは、本当に単なるというのも

変だけど、いわゆるいわゆるミュージカル。

ライオンキングとかマンマ・ミーアとかは、

まだ逃げ場があったけど、これは本当に向こうのやつを

そのまま日本語に訳したミュージカル。

突然歌いだす、なんか歌詞も字余りみたいな、あれだ。

苦手だったのだ。思い出した。

なんか日本語になるとリズムも崩れちゃうし、意味も恥ずかしい。

歌いはじめた瞬間に、アレルギーが悲しいかな、再発。

絶対、英語版はかっこいいと思う。舞台の使い方とかは

すさまじくセンスよかったし、話のつくりも超現代的。

ネオン管と赤電球と照明の組み合わせとか

ちょっとぞくっとする仕上がりだった。

ただ、日本語ミュージカルの恥ずかしいとこが全快。

テーマもきっと、そういうがでやすいんだよなあ。

性とか思春期の問題をガチンコで扱っている作品だから

スラングみたいな言葉も出てきているんだろうし。

それを変に日本語の汚い言葉にかえると、ちょっと違う。

日本のそういう汚い言葉ってスタイリッシュというよりも

面白くなっちゃうんだよなあ。

あとは許せないのは劇場スタッフたち。

チケット売る姉ちゃんはまるで笑顔もなく、むしろ不機嫌。

最初に接する人がぶすっとしてたら、せっかくウキウキで

行ってもがっかりですわ。

あとは、観客席を見張るスタッフがいて、

ちょっと姿勢を崩していると、注意される。

そんな、見えるだろ。ちょっと姿勢崩したところで後ろの人。

そもそもあまり面白くなくて、ぐたっとしてるんだし。

四季、今回は相当がっかりした。

あとで知ったんだけど、題材が題材なので若手が多く

起用されているらしい。それもあるのか?クオリティ低下。

今の日本にして欲しかった「桜姫~長塚現代劇バージョン」@シアターコクーン

日本の桜姫を南米を舞台におきかえて

日本語で上演という長塚圭史が書いた現代版。

正直、日本の今に置き換えたときに

どうなるのかが見たかった。

もう南米にして、舞台も抽象で、どこの時代かも

ふんわりしている状態だと、言葉がはっきり現代語だから

分かる以外は、なんら条件が歌舞伎と変わらない。

そんな気がした。

考えることは考えるなあ。

自分にとっていいことが起こっているときは

自分の分身にとって悪いことが起こっている。

逆もまたしかり。要はフィフティフィフティ。

というよりは、人間ってものすごく業が深いんだろうなあと。

幸せなときももっと先、もっと先を求めてしまう。

相手を見て、自分に不足している幸せに嫉妬する。

正しいことと悪いことが同じ重さで扱われていて

人生はどうしようもなくどちらも起こりうるのだと

肌でびりびりと感じた。

そして、単なる幸せなんてありえないという

長塚ものでいつも感じる、人間への絶望はやっぱり

今回も感じて、この人は生き難いだろうと気の毒に思った。

大竹しのぶと勘三郎のベッドシーンとかあるんだけど

きついかと思いきや、ちゃんとふわっと空気がピンクに

変わったから、ふたりともすさまじいパワーだなあと

感心した。没入、入っていく感じすごい。

あとは古田新太。あの人のテンションの抜き入れの妙は

最近本当に鬼気迫るものがあるなあ。