日本の桜姫を南米を舞台におきかえて
日本語で上演という長塚圭史が書いた現代版。
正直、日本の今に置き換えたときに
どうなるのかが見たかった。
もう南米にして、舞台も抽象で、どこの時代かも
ふんわりしている状態だと、言葉がはっきり現代語だから
分かる以外は、なんら条件が歌舞伎と変わらない。
そんな気がした。
考えることは考えるなあ。
自分にとっていいことが起こっているときは
自分の分身にとって悪いことが起こっている。
逆もまたしかり。要はフィフティフィフティ。
というよりは、人間ってものすごく業が深いんだろうなあと。
幸せなときももっと先、もっと先を求めてしまう。
相手を見て、自分に不足している幸せに嫉妬する。
正しいことと悪いことが同じ重さで扱われていて
人生はどうしようもなくどちらも起こりうるのだと
肌でびりびりと感じた。
そして、単なる幸せなんてありえないという
長塚ものでいつも感じる、人間への絶望はやっぱり
今回も感じて、この人は生き難いだろうと気の毒に思った。
大竹しのぶと勘三郎のベッドシーンとかあるんだけど
きついかと思いきや、ちゃんとふわっと空気がピンクに
変わったから、ふたりともすさまじいパワーだなあと
感心した。没入、入っていく感じすごい。
あとは古田新太。あの人のテンションの抜き入れの妙は
最近本当に鬼気迫るものがあるなあ。
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