名和さんといえば、粒粒ビーズなんだけど、
「L_B_S」はLiquid、Beads、Scumの頭文字を取ったものらしい。
beadsは、よく見た粒粒ビーズ。今回が鹿がまるごと粒粒に
覆われている。なんか表面が溶け出して、空気とのヘリが
変化しているみたいで、妙に気持ち悪い。いい意味で。
こんな感覚になったことは、名和さんのを見てて初めてで
やはりフルフィギュアだと見る方の感じ方も変わるなあと思った。
ちょっとジョジョみたいな、北斗の拳的な形の変わり方ね。
で、Scumはこんなことらしい。(人の文章から抜粋)
ビーズで覆うPixCellシリーズの作品になりえなかった素材の表面に、
ポリウレタン樹脂を特殊な手法で吹き付けて制作されるという
Villus(柔毛の表皮)は、ビーズのように透明感のある素材と違い、
内部のモノはまったく見えない。
その輪郭から「仏像」あるいは「手榴弾」かな、と推測はできるが、
内部にその物体が本当に入っているのかわからない。
それは、「仏像かもしれない」し、「手榴弾かもしれない」。
一様に同じ皮膜(Villus)をまとったモノたちは、
視覚的な形状からのみ、個性を主張する。
ふわふわした皮膜を一枚かぶるだけで
物の個性というのは、ここまで失われるのかと、
ちょっと意外にも思う感じ。
たしかに影絵とかでも、はっきり分かるものって意外にない。
モノは、今ある形の輪郭をしっかりと持ってこそ
はじめて認識ができるものなんだなあと思った。
細部までちゃんと、そのものであることが大事とは
身につまされる感じがした。
で、Liquid。シリコンオイルに耐えることなく
泡が生まれては消え、生まれたは消える。
形ができては失われていくその連続を見つめていると
気が狂いそうになる。
なんかもこもこもこもこ生まれてくるのって
ゾンビみたいな感じがして、妙にざわざわする。
命が半端な形に、おもちゃに作られている感じは
勝手にこっちが思ったことだけど、そんな吐き気がした。
いい意味で。
2009年7月26日日曜日
田舎もんとは思われたくない!「エカテリーナ2世の4大ディナーセット」@東京都庭園美術館
こんな展示。
女帝エカテリーナ2世(1729-1796)の時代、
ロシア宮廷では君主の威厳と崇高さを演出する工夫が
様々に試みられました。
女帝は衣食住にわたって「エルミタージュ・エチケット」
と呼ばれる礼儀作法を厳格に規定し、宮廷儀礼の形成に
大きな影響を与えました。
文化的な成熟度を内外にアピールする場でもあった晩餐会では、
その場を構成する全てがひとつの芸術と見なされ、
料理はもちろん、テーブルセッティングや室内装飾、
列席者の衣装に至るまで、当時最高の質と内容が求められていました。
女帝は特別な招待客のために、西欧各国の王立窯や最新の窯に
特別なディナー・ウェアを発注し、卓上を豪奢かつ華麗に彩らせました。
当時たいへん貴重であった白く輝く磁器を贅沢に使用した晩餐会は、
女帝の財力や権勢を誇示する絶好の機会でもあったからです。
本展では、日本初公開となる
ベルリン王立窯の《ベルリン・デザート・セルヴィス》や、
愛人ポチョムキン公のために注文された
セーヴル窯の《カメオ・セルヴィス》など、
エルミタージュ美術館の所蔵品より
4つのディナー・セットのコレクションを選び、
女帝エカテリーナ2世の生涯と
華麗なる18世紀ロシア宮廷生活をご紹介します。
ひとつひとつに意味があるものっていいなあといつも思う。
ベースの知識があるから理解できるウイットって憧れる。
この食器にトルコ人がいるのは、
トルコ人を支配下にいれたお祝いだからとか
この食器に描かれているのは、憧れていた最先端のイギリスの景色だとか
いちいち生活にストーリーがある美しさ。いいなあ、豊かだなあ。
相手のことをどこまでも思いながら、とにかく田舎もんロシアが
ヨーロッパの国と対等に思ってもらいたくてもらいたくて
恋焦がれて、作っていった食器の数々はよい意味での
怨念がこもっていて、熱をおびていた。
もちろん、やっぱりいもっぽさが残るのは、どうしようもないんだけど。
なんだろう、どうしても、ごてごてしていくんだよねえ。
田舎の都会ナイズは。
引き算ができない。怖くて。
足して足して、まだ足りないと、足していく。都会っぽさを。
で、結果、田舎っぽく戻っていくという滑稽さ。
我が身を思うわ。
あとは、デザインの王道はやはり自然を煮詰めていくことで
今でも残り、きちんと戦うことができているのは、
花を死ぬ程見つめ直したデザインだったりするから面白い。
人間が生み出すことができる想像力の限界ってあるなあ。
自然のなかにしかない無限の線のあり方が生み出す
徹底的な美しさは不思議と心に残る。
庭では、しきりに鳩がキスしてた。あんなに動かずに
いちゃいちゃしてる鳩をはじめて見て驚いた。
女帝エカテリーナ2世(1729-1796)の時代、
ロシア宮廷では君主の威厳と崇高さを演出する工夫が
様々に試みられました。
女帝は衣食住にわたって「エルミタージュ・エチケット」
と呼ばれる礼儀作法を厳格に規定し、宮廷儀礼の形成に
大きな影響を与えました。
文化的な成熟度を内外にアピールする場でもあった晩餐会では、
その場を構成する全てがひとつの芸術と見なされ、
料理はもちろん、テーブルセッティングや室内装飾、
列席者の衣装に至るまで、当時最高の質と内容が求められていました。
女帝は特別な招待客のために、西欧各国の王立窯や最新の窯に
特別なディナー・ウェアを発注し、卓上を豪奢かつ華麗に彩らせました。
当時たいへん貴重であった白く輝く磁器を贅沢に使用した晩餐会は、
女帝の財力や権勢を誇示する絶好の機会でもあったからです。
本展では、日本初公開となる
ベルリン王立窯の《ベルリン・デザート・セルヴィス》や、
愛人ポチョムキン公のために注文された
セーヴル窯の《カメオ・セルヴィス》など、
エルミタージュ美術館の所蔵品より
4つのディナー・セットのコレクションを選び、
女帝エカテリーナ2世の生涯と
華麗なる18世紀ロシア宮廷生活をご紹介します。
ひとつひとつに意味があるものっていいなあといつも思う。
ベースの知識があるから理解できるウイットって憧れる。
この食器にトルコ人がいるのは、
トルコ人を支配下にいれたお祝いだからとか
この食器に描かれているのは、憧れていた最先端のイギリスの景色だとか
いちいち生活にストーリーがある美しさ。いいなあ、豊かだなあ。
相手のことをどこまでも思いながら、とにかく田舎もんロシアが
ヨーロッパの国と対等に思ってもらいたくてもらいたくて
恋焦がれて、作っていった食器の数々はよい意味での
怨念がこもっていて、熱をおびていた。
もちろん、やっぱりいもっぽさが残るのは、どうしようもないんだけど。
なんだろう、どうしても、ごてごてしていくんだよねえ。
田舎の都会ナイズは。
引き算ができない。怖くて。
足して足して、まだ足りないと、足していく。都会っぽさを。
で、結果、田舎っぽく戻っていくという滑稽さ。
我が身を思うわ。
あとは、デザインの王道はやはり自然を煮詰めていくことで
今でも残り、きちんと戦うことができているのは、
花を死ぬ程見つめ直したデザインだったりするから面白い。
人間が生み出すことができる想像力の限界ってあるなあ。
自然のなかにしかない無限の線のあり方が生み出す
徹底的な美しさは不思議と心に残る。
庭では、しきりに鳩がキスしてた。あんなに動かずに
いちゃいちゃしてる鳩をはじめて見て驚いた。
超すげえコントでアート「寛容のオルギア/ヤン・ファーブル」@彩の国さいたま芸術劇場
いやあ、すごかった。しびれた。感動した。
今の消費社会ってすごいねって話で、なんでもかんでも
おもしろがっちゃって、本当に僕らは大丈夫なのか?って
ゲラゲラ笑いながら考えて、もはや崩れてしまった
いろんな意味でのバランスをどうやって取り戻すのか?
はたまた、もう取り戻すことなんて出来ないのか?
って、またそれはそれで滑稽で・・・。
妊婦がショッピングカートに乗って洗剤を産んだり
キリストを売り出すためのミュージシャン化マネジメントとか
みんなで何回オナニーできるか大会とか
まずはファックって言って、文句をいってみようとか
そんなどうしようもないシーンなのに、
絶妙に美しく、なぜだか心にしみいるのね。すごい。
笑いってすごかったと、今までのヤン・ファーブルの
心に入ってこなさ加減を思うと、隔世の感。
欲望にひたすら飲まれ続ける毎日のなかで
テレビっていうハコについて、ヤン・ファーブルがいっていて
あれは、見てもらうためなら、タブーなく欲を利用し尽くすから
恐ろしいみたいな話をしていて、確かにと思う。
自分も、ただただ、見てもらうことを考える。
そして、刺激に麻痺していく。そんな側面がある。
麻痺した先に何があるのか?
まだ見て見たいという耐えない欲求がある。
今の消費社会ってすごいねって話で、なんでもかんでも
おもしろがっちゃって、本当に僕らは大丈夫なのか?って
ゲラゲラ笑いながら考えて、もはや崩れてしまった
いろんな意味でのバランスをどうやって取り戻すのか?
はたまた、もう取り戻すことなんて出来ないのか?
って、またそれはそれで滑稽で・・・。
妊婦がショッピングカートに乗って洗剤を産んだり
キリストを売り出すためのミュージシャン化マネジメントとか
みんなで何回オナニーできるか大会とか
まずはファックって言って、文句をいってみようとか
そんなどうしようもないシーンなのに、
絶妙に美しく、なぜだか心にしみいるのね。すごい。
笑いってすごかったと、今までのヤン・ファーブルの
心に入ってこなさ加減を思うと、隔世の感。
欲望にひたすら飲まれ続ける毎日のなかで
テレビっていうハコについて、ヤン・ファーブルがいっていて
あれは、見てもらうためなら、タブーなく欲を利用し尽くすから
恐ろしいみたいな話をしていて、確かにと思う。
自分も、ただただ、見てもらうことを考える。
そして、刺激に麻痺していく。そんな側面がある。
麻痺した先に何があるのか?
まだ見て見たいという耐えない欲求がある。
駄話「ボス・イン・ザ・スカイ/ヨーロッパ企画」@青山円形劇場
なんか全編、大人計画のアドリブ部分で出来ているような
ゆる会話で楽しめた。うむ、よく出来てる。
で、書こうと思っても、あるジェネレーションからは
絶対に書けないであろう、テイスト。
ドラゴンを退治して掃除する一団があって、
もうちょっとその仕事は、かつてかっこよかったはずなのに
今では時代遅れみたいになっていて、
悲しいかな、どんどんやる人も少なくなってて
熱意というよりは惰性で、ヒーロー性のある仕事を
続けているという、なかなか思いつきそうで
うまくはまらない枠組みを上手に使ってる。
感心。
いちいちこねたがうまい。印象。
大きい枠組みでの落としの作り方は、往年のナイロン。
そういう意味では、あらゆる90年代から00年代の
いいとこどりで出来ている雰囲気のお芝居だった。
ああ、なんか覚えておきたいネタ、結構あったのに。
すっかろ忘れている自分が悲しい。なんだっけなあ。
ゆる会話で楽しめた。うむ、よく出来てる。
で、書こうと思っても、あるジェネレーションからは
絶対に書けないであろう、テイスト。
ドラゴンを退治して掃除する一団があって、
もうちょっとその仕事は、かつてかっこよかったはずなのに
今では時代遅れみたいになっていて、
悲しいかな、どんどんやる人も少なくなってて
熱意というよりは惰性で、ヒーロー性のある仕事を
続けているという、なかなか思いつきそうで
うまくはまらない枠組みを上手に使ってる。
感心。
いちいちこねたがうまい。印象。
大きい枠組みでの落としの作り方は、往年のナイロン。
そういう意味では、あらゆる90年代から00年代の
いいとこどりで出来ている雰囲気のお芝居だった。
ああ、なんか覚えておきたいネタ、結構あったのに。
すっかろ忘れている自分が悲しい。なんだっけなあ。
2009年7月9日木曜日
巨大一点もの「流れる水/塩田千春」@発電所美術館
その昔、水力発電所だった場所を美術館に変えた
とんでもなく豪華な空間が富山にあって、
そこで塩田千春さんがインスタレーションをやるという
またまた期待がふくらむ、キャスティング。
他には常設も何もないんだけど、とにかく行ってみた。
すごかった。
何せ、この発電所美術館が持つ磁場がすごい。
もはやスケール感が日本ではない。なんかちまちましてない。
せこくない。どーんとしてる。
だから、訪れた方も、ただただゆったりしたキモチになれる。
ヨーロッパみたい、富山なのに。
河岸段丘っていう地理で習った懐かしい地形を利用した
水力発電所の内部空間がまるごと美術館。
ものすごい天井高のところに、吊られ、ひしめいている、
病院のベッド。「命の水」というテーマで作られた作品は、
そのベッドでつくられた川にもみえるオブジェに、
大量の水がジャージャーと降り注ぐ。
そのザーという音が無機質な空間に響き渡って、
心の中をざわつかせる。
命の源の音でもあるし、
不安になったときに聞く音でもあるし、
ひんやりと落ち着く音でもある。
オブジェにはねる水、つたう水、落ちる水、
すべてが血のようにも見えて、
命が連綿とつながって、時間をつむいでいく様。
キレイにはまるインスタレーションって滅多にみないんだけど
ここのはすごかった。いやあ、すさまじかった。
何も観光地のような場はないけれど
それに喫茶店とかも、なんかよい。
豊かにゆっくりと静かに落ち着きを取り戻せる、
そんな空間。
ただ、窓が開いている。風が吹き抜ける。
ゆっくりと陽が傾く、時間を感じる。
そういう感覚も大事じゃないのかと思う。
とんでもなく豪華な空間が富山にあって、
そこで塩田千春さんがインスタレーションをやるという
またまた期待がふくらむ、キャスティング。
他には常設も何もないんだけど、とにかく行ってみた。
すごかった。
何せ、この発電所美術館が持つ磁場がすごい。
もはやスケール感が日本ではない。なんかちまちましてない。
せこくない。どーんとしてる。
だから、訪れた方も、ただただゆったりしたキモチになれる。
ヨーロッパみたい、富山なのに。
河岸段丘っていう地理で習った懐かしい地形を利用した
水力発電所の内部空間がまるごと美術館。
ものすごい天井高のところに、吊られ、ひしめいている、
病院のベッド。「命の水」というテーマで作られた作品は、
そのベッドでつくられた川にもみえるオブジェに、
大量の水がジャージャーと降り注ぐ。
そのザーという音が無機質な空間に響き渡って、
心の中をざわつかせる。
命の源の音でもあるし、
不安になったときに聞く音でもあるし、
ひんやりと落ち着く音でもある。
オブジェにはねる水、つたう水、落ちる水、
すべてが血のようにも見えて、
命が連綿とつながって、時間をつむいでいく様。
キレイにはまるインスタレーションって滅多にみないんだけど
ここのはすごかった。いやあ、すさまじかった。
何も観光地のような場はないけれど
それに喫茶店とかも、なんかよい。
豊かにゆっくりと静かに落ち着きを取り戻せる、
そんな空間。
ただ、窓が開いている。風が吹き抜ける。
ゆっくりと陽が傾く、時間を感じる。
そういう感覚も大事じゃないのかと思う。
感覚が死んでいるのか?「ダイアローグ・イン・ザ・ダーク」@青山
こんなに人間の感覚が麻痺しているのか?
もしくは、
こんなに人間の感覚というのは可能性に満ちているのか?
日常というものが、なにひとつ確かなことなどないことを
まざまざと感じさせてくれる出し物だった。
真っ暗な中を10人前後のパーティーで進んでいく。
それをアテンドするのは、視覚障害者の人。
驚くことに、彼らの真っ闇を動くスピードは半端ない。
ワープしたみたいに空間のあちこちに瞬間移動する。
というよりは、自分たちがまったく動けなくなる。
もう前後左右はもちろん、上下もあやしくなって
空間感覚というものが粉みじんに破壊される。
部屋のひろさもひろがりも失われる。
そんな100%まっくらな空間の中に
様々なテーマの世界がつくられている。
森を行き、川を行き、田舎の家をたずね、
バーで飲み物さえいただける。
そこで触った木の葉や幹の様子は、まったく別物。
生きていると感じる葉脈のもっこり感。
守っていく意志を感じる幹表面のごりごり感。
足の裏が生き返る不思議な感覚。歩くということは
地面と接することで、そこには楽しみがあると知る瞬間。
水とかゆらぐ音とかいいよねえとかいうけど
心底音だけ聞く体験すると、複雑に音がからみあっている。
ブランコとか乗ってみると、ちょっと無重力体験みたいだし、
家にある様々な電化製品も触りながら当てていくと
いかに機能に特化していて、しかも自然の中には
ありえないものを自分たちが作り出しているかがわかる。
なにせ、かたくて、冷たい。
石とかは不思議とちょっとあったかい感じ、残ってる。
プラスチックとは、ぜんぜん違うんだよねえ。
飲み物とか飲んでみると、身体に入っていく、
口の中で味がしみわたっていく感じって、
まさに全身で味わうみたいな生き返る雰囲気。
それにしてもすごい体験だった。
考えて形にした人、すごいわ!このイベント。
さらに、社会的なアプローチもよろしくて、
できるだけ恒久的に行うことで、視覚障害者の
安定的な雇用も目指しているらしい。
しかも、セカンドベストな職ではなくて、
みんながやりたがる誇りを持った仕事を作りだす
という。
うーん。いい企画だ。
もしくは、
こんなに人間の感覚というのは可能性に満ちているのか?
日常というものが、なにひとつ確かなことなどないことを
まざまざと感じさせてくれる出し物だった。
真っ暗な中を10人前後のパーティーで進んでいく。
それをアテンドするのは、視覚障害者の人。
驚くことに、彼らの真っ闇を動くスピードは半端ない。
ワープしたみたいに空間のあちこちに瞬間移動する。
というよりは、自分たちがまったく動けなくなる。
もう前後左右はもちろん、上下もあやしくなって
空間感覚というものが粉みじんに破壊される。
部屋のひろさもひろがりも失われる。
そんな100%まっくらな空間の中に
様々なテーマの世界がつくられている。
森を行き、川を行き、田舎の家をたずね、
バーで飲み物さえいただける。
そこで触った木の葉や幹の様子は、まったく別物。
生きていると感じる葉脈のもっこり感。
守っていく意志を感じる幹表面のごりごり感。
足の裏が生き返る不思議な感覚。歩くということは
地面と接することで、そこには楽しみがあると知る瞬間。
水とかゆらぐ音とかいいよねえとかいうけど
心底音だけ聞く体験すると、複雑に音がからみあっている。
ブランコとか乗ってみると、ちょっと無重力体験みたいだし、
家にある様々な電化製品も触りながら当てていくと
いかに機能に特化していて、しかも自然の中には
ありえないものを自分たちが作り出しているかがわかる。
なにせ、かたくて、冷たい。
石とかは不思議とちょっとあったかい感じ、残ってる。
プラスチックとは、ぜんぜん違うんだよねえ。
飲み物とか飲んでみると、身体に入っていく、
口の中で味がしみわたっていく感じって、
まさに全身で味わうみたいな生き返る雰囲気。
それにしてもすごい体験だった。
考えて形にした人、すごいわ!このイベント。
さらに、社会的なアプローチもよろしくて、
できるだけ恒久的に行うことで、視覚障害者の
安定的な雇用も目指しているらしい。
しかも、セカンドベストな職ではなくて、
みんながやりたがる誇りを持った仕事を作りだす
という。
うーん。いい企画だ。
思い出したのだった「春のめざめ/劇団四季」@自由劇場
オフブロードウエイからブロードウエイへ
かけあがった話題作。春のめざめ。
ということで、まあ、これは「問題作」とも
いわれているので、見ておかなくてはと行きました。
劇団四季。春のめざめ。
だが…思い出した。これは、本当に単なるというのも
変だけど、いわゆるいわゆるミュージカル。
ライオンキングとかマンマ・ミーアとかは、
まだ逃げ場があったけど、これは本当に向こうのやつを
そのまま日本語に訳したミュージカル。
突然歌いだす、なんか歌詞も字余りみたいな、あれだ。
苦手だったのだ。思い出した。
なんか日本語になるとリズムも崩れちゃうし、意味も恥ずかしい。
歌いはじめた瞬間に、アレルギーが悲しいかな、再発。
絶対、英語版はかっこいいと思う。舞台の使い方とかは
すさまじくセンスよかったし、話のつくりも超現代的。
ネオン管と赤電球と照明の組み合わせとか
ちょっとぞくっとする仕上がりだった。
ただ、日本語ミュージカルの恥ずかしいとこが全快。
テーマもきっと、そういうがでやすいんだよなあ。
性とか思春期の問題をガチンコで扱っている作品だから
スラングみたいな言葉も出てきているんだろうし。
それを変に日本語の汚い言葉にかえると、ちょっと違う。
日本のそういう汚い言葉ってスタイリッシュというよりも
面白くなっちゃうんだよなあ。
あとは許せないのは劇場スタッフたち。
チケット売る姉ちゃんはまるで笑顔もなく、むしろ不機嫌。
最初に接する人がぶすっとしてたら、せっかくウキウキで
行ってもがっかりですわ。
あとは、観客席を見張るスタッフがいて、
ちょっと姿勢を崩していると、注意される。
そんな、見えるだろ。ちょっと姿勢崩したところで後ろの人。
そもそもあまり面白くなくて、ぐたっとしてるんだし。
四季、今回は相当がっかりした。
あとで知ったんだけど、題材が題材なので若手が多く
起用されているらしい。それもあるのか?クオリティ低下。
かけあがった話題作。春のめざめ。
ということで、まあ、これは「問題作」とも
いわれているので、見ておかなくてはと行きました。
劇団四季。春のめざめ。
だが…思い出した。これは、本当に単なるというのも
変だけど、いわゆるいわゆるミュージカル。
ライオンキングとかマンマ・ミーアとかは、
まだ逃げ場があったけど、これは本当に向こうのやつを
そのまま日本語に訳したミュージカル。
突然歌いだす、なんか歌詞も字余りみたいな、あれだ。
苦手だったのだ。思い出した。
なんか日本語になるとリズムも崩れちゃうし、意味も恥ずかしい。
歌いはじめた瞬間に、アレルギーが悲しいかな、再発。
絶対、英語版はかっこいいと思う。舞台の使い方とかは
すさまじくセンスよかったし、話のつくりも超現代的。
ネオン管と赤電球と照明の組み合わせとか
ちょっとぞくっとする仕上がりだった。
ただ、日本語ミュージカルの恥ずかしいとこが全快。
テーマもきっと、そういうがでやすいんだよなあ。
性とか思春期の問題をガチンコで扱っている作品だから
スラングみたいな言葉も出てきているんだろうし。
それを変に日本語の汚い言葉にかえると、ちょっと違う。
日本のそういう汚い言葉ってスタイリッシュというよりも
面白くなっちゃうんだよなあ。
あとは許せないのは劇場スタッフたち。
チケット売る姉ちゃんはまるで笑顔もなく、むしろ不機嫌。
最初に接する人がぶすっとしてたら、せっかくウキウキで
行ってもがっかりですわ。
あとは、観客席を見張るスタッフがいて、
ちょっと姿勢を崩していると、注意される。
そんな、見えるだろ。ちょっと姿勢崩したところで後ろの人。
そもそもあまり面白くなくて、ぐたっとしてるんだし。
四季、今回は相当がっかりした。
あとで知ったんだけど、題材が題材なので若手が多く
起用されているらしい。それもあるのか?クオリティ低下。
今の日本にして欲しかった「桜姫~長塚現代劇バージョン」@シアターコクーン
日本の桜姫を南米を舞台におきかえて
日本語で上演という長塚圭史が書いた現代版。
正直、日本の今に置き換えたときに
どうなるのかが見たかった。
もう南米にして、舞台も抽象で、どこの時代かも
ふんわりしている状態だと、言葉がはっきり現代語だから
分かる以外は、なんら条件が歌舞伎と変わらない。
そんな気がした。
考えることは考えるなあ。
自分にとっていいことが起こっているときは
自分の分身にとって悪いことが起こっている。
逆もまたしかり。要はフィフティフィフティ。
というよりは、人間ってものすごく業が深いんだろうなあと。
幸せなときももっと先、もっと先を求めてしまう。
相手を見て、自分に不足している幸せに嫉妬する。
正しいことと悪いことが同じ重さで扱われていて
人生はどうしようもなくどちらも起こりうるのだと
肌でびりびりと感じた。
そして、単なる幸せなんてありえないという
長塚ものでいつも感じる、人間への絶望はやっぱり
今回も感じて、この人は生き難いだろうと気の毒に思った。
大竹しのぶと勘三郎のベッドシーンとかあるんだけど
きついかと思いきや、ちゃんとふわっと空気がピンクに
変わったから、ふたりともすさまじいパワーだなあと
感心した。没入、入っていく感じすごい。
あとは古田新太。あの人のテンションの抜き入れの妙は
最近本当に鬼気迫るものがあるなあ。
日本語で上演という長塚圭史が書いた現代版。
正直、日本の今に置き換えたときに
どうなるのかが見たかった。
もう南米にして、舞台も抽象で、どこの時代かも
ふんわりしている状態だと、言葉がはっきり現代語だから
分かる以外は、なんら条件が歌舞伎と変わらない。
そんな気がした。
考えることは考えるなあ。
自分にとっていいことが起こっているときは
自分の分身にとって悪いことが起こっている。
逆もまたしかり。要はフィフティフィフティ。
というよりは、人間ってものすごく業が深いんだろうなあと。
幸せなときももっと先、もっと先を求めてしまう。
相手を見て、自分に不足している幸せに嫉妬する。
正しいことと悪いことが同じ重さで扱われていて
人生はどうしようもなくどちらも起こりうるのだと
肌でびりびりと感じた。
そして、単なる幸せなんてありえないという
長塚ものでいつも感じる、人間への絶望はやっぱり
今回も感じて、この人は生き難いだろうと気の毒に思った。
大竹しのぶと勘三郎のベッドシーンとかあるんだけど
きついかと思いきや、ちゃんとふわっと空気がピンクに
変わったから、ふたりともすさまじいパワーだなあと
感心した。没入、入っていく感じすごい。
あとは古田新太。あの人のテンションの抜き入れの妙は
最近本当に鬼気迫るものがあるなあ。
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