2008年4月23日水曜日

生きること生きていること「潜水服は蝶の夢をみる」

こんな話。

ジャン=ドミニク(マチュー・アマルリック)は目覚める。
そこは病室。自分が脳梗塞で倒れ、
運び込まれたことを徐々に思い出す。
しかし、自分の言葉が通じない。
その上身体全体も動かない。
唯一、動くのは左眼のまぶただけになっていた。
つい先日までは、人生を謳歌し、
ELLEの編集者として活躍していたドミニク。
看護婦のサンドリーヌが彼の左まぶたが動くのに気づき、
次第に彼の希望は明日へと向かっていく。
そしてある日、編集者のクロードがやってきて、
ドミニクに自伝を書くように勧める――。
奇跡の実話を『バスキア』『夜になるまえに』の俊英、
ジュリアン・シュナーベルが完全映画化した
感動のドキュメント・ロマン。

生きることと生きていることは違うよなあと

しみじみと思う。追い込まれないと、なかなか

人生は開いていかない。だから厄介だ。

100%で生きているって、どういうことなのか?

大事なことってどういうことなのか?

今の自分のすべてを、懸命に生きていくことが

どれだけ価値があることなのか?

頭から生み出される世界の価値をまざまざと

感じることができる。人間は、想いを馳せることが

できるし、できている。本当にありがたい。

この瞬間に、誰かとともにいることの幸せとか

ちょっと前の瞬間に、話しいて笑うことの幸せとか

世の中には、失わないと分からないことが

あまりにも多すぎる。そんなことをいちいち

気づかされる映画だった。

なお切ないのは、自分の人生を語りきったあとに

すぐご本人が亡くなったという事実。

人はなにもかもをやり遂げると、きっと、

よろしくない結果が待っているのだ。

いくつもいくつも、静かな幸せ涙を流す。

ああ、本当に、今、生きているのは、幸せだ。

2008年4月21日月曜日

面白そうでも・・・「どん底」@コクーン

久々に、9割近くはあの世いき。

もったいない。相当盛り上がっていたのに。

なんか、テンション高く、人が人をののしっていたのに。

そして、独白していたのに。

セットチェンジもなんだかすごくて、

屋根が地面に早変わり!したりしたのに。

何も書くことができない程、ぐっすり。

しかも、開演にも間に合わず。20分くらい遅れた。

最悪だ。

ただ、ロシアものは本当に展開しないし、

人のあり方の描き方が神妙で、シックだ。

劇的であることを拒否するかのように、

人が囲まれた環境をじっくりと演じ上げる。

そして、そんなキャラクターが大勢出ることで

はじめて世界が立ち上がってくる。

のだけれど、寝てしまってるから

その瞬間はまるで、見ることができずにいた。

2008年4月17日木曜日

日本の歪み「ポップ道1960Sー2000S」@MOT

こんな展示。

「ポップ道 1960s-2000s」は、現代美術の流れの中に、
見え隠れしながらも絶えず作用し続ける要素を「ポップ」と総称し、
東京都現代美術館のコレクションによってご紹介するものです。

その源流はもちろん、戦後大きく人々の生活を支配するようになった
大衆文化を、憧れや批判など様々な視点から切り取った
「ポップ・アート」に求められるでしょう。
しかしその後、作家たちが眼差しを向ける「ポップ」の
射程は、時に相反するものまで取り込みつつ、様々に揺れ動きます。

日常生活に蔓延する「アメリカ」から、
その底に貼りついて消えることのない「日本」へ。

大衆から、その中に埋没せざるを得ない個人のあり方へ。

ここから生み出された作品群は、私たちの日常を形作っている
諸条件を見つめ直すものであり、「現在の私」を映し出す
鏡であるともいえるでしょう」


そうねえ。そうだよねえ。もっともだよねえ。

なんかずっと借り物の何かを着ているような

変な感覚があることは間違いなくて

しかも、日本には変にちゃんと占領されていない

半端な独立した感じもあって、アートって世界には

その感覚は本当に根深い。

ポップなんて言われると、もうその世界観そのものが

なかったはずなのに、今ではもてはやされて

ポップなくしては、グッとこないかのような

雰囲気さえある、ものだ。

会田誠の「たまゆら」「ひのまる」は本当にいつもみても

今の魂の奥底に病みきった日本を感じて

心が痛むし、そしてどこまでも美しい。

奈良さんのペインティングも、こういう文脈で置かれると

不思議に人間が立ってくる感じがしてしまう。

どうしようなく、なんとなく怒る。

でも、大きな声が出さずに、怒る。

その形が結局、ポップって、なんだか深すぎる結果に。

そして、岡本太郎の「明日の神話」

超巨大。そして、原爆に対する想いに、

大きさを必要として、小さくはなりえない

逃げ場のなさがまた、根深い問題を感じ

どうしようもない。あの絵の30メートル以上のサイズに

どんな新しさがあるのかといわれればない。そんなもん。

2008年4月15日火曜日

「デブモジャ系」



単品開発
集まって話す#09
2008/03/22
綾瀬 旧佐々田自宅

春は旅立ちのとき。
もう、この家も引き払い
今は奈良。
佐々田、元気にやりな。

2008年4月14日月曜日

同じモノでも違う世界「解きほぐすとき」@MOT

「解きほぐすとき」をテーマに、
事物をばらばらに解体し、解きほぐすことで
自分なりに世界の輪郭を捉えようとする
5人の作家を紹介します。

ということで集められたのが、この方々。
金氏徹平、高橋万里子、立花文穂、手塚愛子、彦坂敏昭

中でも気に入ったのは、この2人。


金氏徹平

コーヒーのしみを集めて重ねて

オブジェにしていくやつが

なんだか、元に戻っていく様子に

キモチがフッとした。

いろんな形になるけれど

最終的になんだか非常に

木材な深い色合いになっていて

原点に戻る感じがいいなあと思った。

草木染とかもそうだけれど

自然の染料にある、あの深みは

一体なんなのだろう?

肌に戻ってくる、カラダに戻ってくる感覚が

刺さってくる。



手塚愛子

じゅうたんの縦糸だけを途中から取り出すと

フシギな世界が出来上がる。

編むという行為を逆転させて

現れる世界の景色は

なんだか、半分だけ人の手で出来ているけれど

もう半分は自然にゆだねられているようで

その余白が、妙に気になる。

色の重なりが、ちょっと絵画とは違う

マテリアルならではのものがあって

実際に形のあるものが生み出すイメージを

重ねていくことで、ちょっと違った感覚まで

生まれるもんだなあと感心した。

場のストーリー「川俣正/通路」@MOT

今回の展覧会にあたり、
新しいプロジェクトとして実施されるのは、
美術館を"通路"にすることです。
"通路"は場所と場所との中間領域や敷居、あるいは迂回路でもあり、
接触領域(コンタクトゾーン)でもあります。
通常は「貯蔵庫」「展示」といった機能が前面に出される美術館を、
人々が行き交う"通路"としてみなすことで
どのようにその空間や機能を変容させるのでしょうか?

こんな試みで、アートが世界との接し方を

様々に見せてくれる、はずなんだけど。

なんだろう?

そこには、本当に何もなくて驚いた。からっぽ。

常設展の中でやるべきネタじゃなかったのかなあ。

美術館が本当のハコでしかない瞬間って

美術に関わっていない人しか見ないもの。

それって美術館の機能じゃないでしょ。

作品との出会い方とか飾られ方とかに場の決まりがあって

そこに新しく通路を作れば、全然、違ったと思うけど。

空っぽで何もないとこ、ふらふら歩いても

結局なんでもない。本当に景色もなにもない散歩。

自分と向き合うしかない。中で継続的に進んでいる企画が

またひどい。なんか適当。場を埋める機能もない。

ちゃんと作り上げることを放棄した場がだらだらと続く。

悲惨だ。

過去の様々なプロジェクトでうまくいっているのは

やはり、しっかりとした場のストーリーがある場所に

何かをぶつけることができている時だと思えた。

もっと歴史のある、やっかいな美術館でできたら

本当に革命的だと思うけど。

現代美術に親和性のあるハコだと、なんの面白さもない。

2008年4月1日火曜日

漢字かなスゴイ「TEXTASY:ブロディ・ノイエンシュヴァンダー展」

外国のカリグラフィと呼ばれるものとか

グラフィティとよばれるものとかを見るたびに

いつも思うのは、圧倒的に日本の勝利だなあということ。

やっぱり、漢字とかなを持っているというのは

こういう文字の美しさとかを使う分野では

もうすさまじく有利なんだな。

レイアウトとか、タッチとか、いろいろと工夫してて

常軌を逸するほどの乱れ方とかを見せるんだけど

もう全然、書の方が深い。

無理せず、美に向かう事ができて、

行き着く先の幽霊さも断然すごい。

でも、残念ながら、すごすぎて全部は受け取れないんだけど。

書の場合。

この人とかも、今、その分野だと第一人者らしいんだけど

ぐっとくるというより、病んだ感じ。

パッと見の印象は、文字の姿形を追求していくというよりは

壊れ方に目がいってしまい、アウトサイダーアートを見ているような

妙な入り込み方をする。

グリーナウエイの映画に参加したりしてる

凄腕なんだけどねえ。

筆とか半紙とか、いいツールを手に入れてたなあと

日本の書の環境も改めて考え直す。

しみたり、はねたり、にじんだり、

そんなことを美しさの中に取り入れるのって

発明だったんだなあ。

今回、これはないと思ったことでいうと、

傷つける、彫り付ける、刻み付ける、みたいな

文字の生み出す、形作る感覚。あれはあまりない。

奇跡マニア「クリエイティブディレクター箭内道彦の漂流」

どこまでが本気か分からない感じが

この人の作る物のいいところで

人間相手にモノを作ってるなあと

いつもいつも感じるところがある。

ひたすらにこの人がいろんなところで

話してきた内容を聞く部屋みたいな場所があって

出入りする人のプチクリエイティブな感じが

面白かった。

ヘッドホンして、ひたすらに箭内さんの言葉を聞く

宗教じみた企画なんだけど

向かい合わせで結構近い距離なのに

挨拶もなしにテープを聞く感じ。

なんか「東京」を感じた。

この距離感で相手を無視するのは、ちょっと都会だ。

奇跡を起こす準備をして、奇跡を待つのが好きという

箭内さんの言葉は非常にグッときた。

準備は大事だ。

何もかもを完璧に準備しまくるということが

それでも時間切れになるのだけれど

だからこそ、見えてくる世界ってあるんだなあ。

あとは、「楽しそう」に見えるように

自分をセルフプロデュースしているというのも、よい。

自分の姿を無理にでも考えていくことは

少しずつ好転させていくきっかけになる。