2009年2月27日金曜日

木村カエラ+スチャダラ

たどってきた時間をしっかりとみつめる「都市へ仕掛ける建築ディナー&ディナーの試み」@東京オペラシティアートギャラリー

派手ではないけれど、しっかりと積み上げた分析を

正しくアウトプットするとすり減らないものが出来ることがある。

そういう仕事を積み重ねてきたスイスの建築事務所の展覧会。

もうね、楽しみ方は超マニアックで、かなり体調よくないと

入り込まないと何も得ることができない感じ。

ただ、一回はまりはじめると結構いける、深淵な楽しみまで。

模型とかも何回も何回も同じ模型のまわりをまわったりすれば

そこにその建築の立つ意味が透けてみえたり。

あとは、そこから何かを変えようとする意思がみえたり、

そこから変わる予感を感じることができたり。

街は時間の積み重ねだということをしっかりと認識していて

そこにムダにクライアントの意思だけで塊感ばかりあるものを

たてたりはしない、非常にはやりをぴしゃりとやる感じのスタンスが

好感を持てるし、参考にもなった。

その時、どんなことがあっても、前の時間があってこその今だし、

今だって次につながる時間の一部だと意識できるのは素晴らしかった。

あとはディテールの細かさ。やはり、ものごとはディテールに神がいる。

レンガひとつ、ガラスひとつ、壁紙ひとつ、理由があり意味がある。

そのひとつに導かれていくプロセスこそ、クリエイティブの原点らしい。

2009年2月23日月曜日

会議室の絵が

好みのケース。
フレデリック・マンギィー

2009年2月18日水曜日

みるとは?「ライト・インサイト」@ICC

光がなきゃ見れないし、

人の目は光をいろんな形でつかまえてるし、

その方法は自分で思っているよりもはるかに

パターン化してて、世界も決まりきったものになっちゃってるんだと

今更ながらにガツンと気づかされる展示で心揺れた。

もともと光にものすごくぐらぐらしやすい体質で

だいたい好きなものは光の感じがうまくコントロールされていて

オラファー・エリアソンとかビル・ヴィオラとか

そういう光が何かを切り裂く瞬間を楽しめるものは当たるんだ。

少ないけど、非常にしびれる、体験満載で本当に素晴らしい。

ちょっと具体的にメモしておこう。

なんだろう?当たり前に自分の身体に寄り添っているものを

びりびりとはがされて、目の前にほうらと放り出されるのが

すさまじい振動を起こすんだろうなあ。


《サンキュウ―インストゥルメント》1995年
インゴ・ギュンター
暗い空間の中で発されるストロボ光を浴びることで,
体験者のシルエットが壁面に一時的に焼き付けられる作品.
人々が無邪気にシルエットと戯れ始めるという開放的な側面を
もつとともに,1945年に広島に原爆が投下された直後の閃光,
そして瞬時のうちに消えてしまった人々の残したシルエット
(ヒロシマの影)を,観客に疑似的に体験させることが
意図されている.
タイトルは,ギュンターによれば,
広島への原爆投下という惨劇があったことが抑止力として働き,
冷戦下において核戦争の危機を回避することが
できたことを意味するという.
「被爆50周年記念展 広島以後」(広島市現代美術館,1995)
にて展示.
本展では,1895年のレントゲンによる放射線の発見が,
それ以降の社会にもたらした
貢献や問題(X線写真,原爆,原発等)を振り返るとともに,
とりわけ20世紀における光を考える上で,
私たちが忘れてはならない原爆投下という事実を
あらためて喚起する.
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正直、日本に住んでいる人間からすると失礼な作品。

何を言われても、人の命が消えた瞬間を痛みもともなわずに

再現するなんて気分が悪い。



《You and I, Horizontal》2006年
アンソニー・マッコール
空間に入ると観客は,光による被膜のような
非物質的な立方体に遭遇する.
この立方体は,微細なミストにプロジェクターからの
光をあてることで実現されたものである.
壁面には,ラインによるドローイングが
見た目には変化がないほどゆっくり描かれ続け,
それが空間においては,次第に形態や空間性を変容させる
三次元の非物質的「彫刻」としてあらわれている.
観客は一種触覚的にも感じられる光の「彫刻」の
内外を自由に行き来することで,
異なる知覚体験に開かれるとともに,
「作品」の一部として「彫刻」
そして空間性に影響を及ぼしていく.
70年代初頭の実験を,
現代の機器によってインスタレーションとして実現.
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これは、すごい。時間をかけていればいるほどすごい。

自分の周りに空間がひらけていくという感覚は

実際に得ることが少ないのだけど、新しい空間認知をゲットできる。

短い時間で出ちゃう人が多くてもったいない。30分はいれる。



《PRINTED EYE(LIGHT)》1987―2008年
藤本由紀夫
体験者が自分の眼に向けて
網膜に弱いストロボ光を発することで,
文字の残像を作品として体験させるもの.
今回は「LIGHT」(光)という言葉が,
光による非物質な体験として体験者それぞれの
網膜上に知覚されることになる.
眼球に直接文字を焼き付けることで成立する,
他者とは共有できないパーソナルな体験としての作品.
藤本は
「眼をとじても,みえてしまい,やがて消えていく文字.
それは音を聴くことににている」と述べている.
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どこにでもついてくる作品というのは珍しく。

こういう人間の身体の仕組みを使い尽くすアイディアは

すごいなと思う。右みても左みても、この人の作品がついてくる。

まさにパーソナル。



《カメラ・ルシーダ:三次元音響観察室》2008年
エヴェリーナ・ドムニチ&ドミートリー・ゲルファンド
暗い空間の中で眼が慣れてくると,
中央にある水で満たされたアクリル性の球体の中に,
音から変換された繊細な光の揺らめきが
微かに見えはじめる作品.
さまざまな周波数の音波群が,
水に含まれる化学的な媒質を通過する際に生じる
「音ルミネセンス」現象
(音波の通過により冷光が発生すること)により,
直接光へと変換され可視化される.
構想段階では科学者にさえ不可能と思われた現象を,
日本,ドイツ,ロシア,ベルギーの科学研究所とともに開発.
タイトルにある「観察室」は,起きているミクロな現象が,
特定のマージナルな状況の時のみ
かろうじて可視化されるものであること,
また計測装置の精度の限界のため,
現象を科学者でさえ把握できないことを意味している.
この作品はまた,
化学と物理,球体の内と外(世界の内外),現象と観察者などを
かつてない方法でつなぎ,相互影響させていく試みでもある.
本展では,音圧他を調整できる最新ヴァージョンを展示.
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いろいろ注意も多いし、待つし、怖いしで、どうしようもないけど

まさにここでしか、しかも混んでない時にしか体験できない。

自然の中にひっそりと潜む消えている美を見つけ出す

スリルと興奮を味わえる。こんなものが隠れる余地があるというだけで

世界はまともだ。

2009年2月16日月曜日

質問

青葉からの質問。今日はアルマジロが気にいったみたい。

2009年2月12日木曜日

人入ってる!!「20世紀少年〜第2章最後の希望」

何はともあれ、混んでて驚く。やっぱり人気あるなあ。

伝われという熱があるんだよねえ、マンガたち。

見習わねば。と日々思いながらじっと画面を見る。

本当に徹底して原作世界を作り上げる様に感心する。

意外と出来そうで出来ないよ、タッチまでそろえていくのは。

カット割りもコマ割りに忠実にとかいうけど、そんな単純じゃない。

音(特にSE)とかテンポ(本当にあり得ないアングルにグイッといく)とか

非凡だなあ、どう考えてもとうなる。

単純にその画と音を楽しみに行けば、きっと損することはない類。

映画として元とれるかは別だけど。人生は揺らさない。

でも、そういうもあっていいじゃんと思う。

お金かけた壮大な息抜きもあっていい。

大スクリーンで木南さんが動いてて、甘酸っぱい気持ちになる。

不幸の法則という番組でさんざん一緒にドラマ撮ったからなあ。

みんな、がんばってる。前向いて。

微速前進だけど、確実にステージは広く大きくなってて、感慨深い。

力が入る。力を入れよう。

2009年2月11日水曜日

表参道

しゅくじつを
わすれるかんじ
いわかんの

大丈夫じゃない力「大丈夫であるように〜cocco終わらない旅」

編集の怖さばかりを感じる仕上がり。

明らかに見て取れる作為とドキュメントに見せる力量に

やらせとか分からなくする意味ではこういう仕上がりの方が

よっぽど罪だと思う。バラエティ番組のやらせなんか甘い。

人格が神格化されていて居心地が悪い。そんなにいいことばっかな

はずがないじゃんと思ってたら、最後の最後に「拒食症で入院」って

それで今までのコントロールされてきた世界にリアルを持ち込もうって

ずるすぎねえかと妙に感心したりした。手法としてはすごい。

ずるいけど。

女子が勝手に世界背負う感じは巫女さんとかのシャーマンが

昔からその代表でいて、魔女なんかもその類で、生命の源に触れている分

その力にリアリティがあるんだろうなあと思う。

今のロックミュージシャンって、人を自分の言葉で熱狂させて、

そこに音楽がついていて、常人には理解されにくい格好をしていてと

今までの歴史における神がかる人の姿をよく表しているらしい。

その力を利用してお金をもうける感じのことも、ある意味宗教団体と

変わらない、後ろにいる大人たちの気配。

ピュアには泣けない、そんな感じ。

なにせcoccoはやせ過ぎで、かすかに映る唇の震えがリアルに

やばかった。

2009年2月10日火曜日

代々木公園

切り株工作

代々木

天気いい。

2009年2月6日金曜日

治ったよ

どういう訳か、朝起きてからうそみたいにずっと元気。

2009年2月4日水曜日

消えていく時間「シセイドウアートエッグ/宮永愛子展」@資生堂ギャラリー

こんな個展。

宮永愛子は、衣服や靴などの日用品をナフタリンでかたどり、
次第に昇華し形を失っていく様子を見せる作品や、
糸に川や海から抽出した塩の結晶を育てた作品など、
時間の経過をイメージさせながら、儚くうつろうかたちを持つがゆえに、
鑑賞者の記憶へと深く刻み込まれていく作品を制作しています。
本展では、かつて銀座周辺に50以上も存在していたといわれる
井戸と湧水に着目したインスタレーション作品を発表します。
地下にあるギャラリー会場内に、
いくつもの水脈をつくり出し、そこに小さな島々を浮かべ、
それらを「地上に向かって放つ」ことにより、
銀座の持つ歴史と記憶を呼び起こします。

写真見た時はもっとグッとくると思って

期待してたんだけど、いまいちだった。

消えていく時間を、リアルに感じたいんだけど

ひとつひとつのモノが小さすぎたのか?

すれて小さく欠けていく様がもうひとつ迫ってこない。

あとは、水脈っていうのも期待したんだけど

パイプが天井から降りているだけで

そこに水の気配は感じないし、水脈のリアルさもない。

やはり、何かしらのモノを支えるリアルは

どうしても欲しくなる。それがないなあと。

リアルな遺跡の、風化の様を越えていく

時間の流れをアートの中に見たかったなあと思い

贅沢な望みをしていたことを反省した。

ナフタレンが昇華して、アクリルにこびりつく

キラキラした結晶は非常にキレイだったんだけど

そこは、人の手を離れた自然だった。

うまく自然を本当に利用できて、アートに引き込む技。

それが必要だ。