2009年5月29日金曜日

埋め合わせるもの「青山娼館/小池真理子」

高級とはいえ、身体を売る商売には変わらない。

でも、それで埋められるキモチをいうものもあると

きっと描きたくて、この小説は書かれたと思う。

思うんだけど、なんか悲劇を背負ってないと、

その商売にいかないという時代じゃないのが

どうにもひっかかる。肌を、身体を開くことで

満たされることがあるのは分かる。

でも、そんなに重たい重たい話ばかりではないのも

事実で、登場人物がいちいち深い悲しみを

背負っているから、この商売に身を賭してよいのだ

みたいな変なステレオタイプが、心にグサッと

入ってこなかったのが残念だ。

中で書かれている、金持ちたちの異常セックス描写が

本当にふるっていて、究極はもはや性器と性器の

ふれあいは遠く先のもので、それなしでいかに

感じきるかみたいなチャレンジになっていくのだなあと

妙な納得をしてしまった。

バスローブ着せて、そのまま風呂入らせて、

そこにバラを次々に投げ込んで、

裸を見えなくして(というか裸も見えてないんだけど)

それをみながらオナニーするという、どんな世界だ?

いったいぜんたい。

40声のモテット「ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラー」@メゾン・エルメス

ずらりと並ぶ40個のスピーカー。

そこから流れる1573年に作られたトマス・タリスの

「我、汝の他に望みなし」。

それをつつむ、メゾン・エルメスのガラスボックス。

まあ、完璧。しかも、東京銀座という地場。さらに良。

たぶん、西洋のどこで見るよりも、よい。

場所が明確でない、普通はそんな聖歌など流れない場所に、

にせものの人間に模したスピーカーが尊い歌を、朗々と歌う。

しかも、ガラスからこぼれる光に、その声が見事に溶け合って

場所感とか時代感を一挙に飛び越える不思議体験だった。

40のスピーカーは、それぞれがひとりひとりのパートを

当てはめられていて、時折斉唱になったり、突然ハモッたり、

衣擦れの音だけになったりして、合唱の輪の中で体験した、

小中学校の気分の再現のようだなあとか一瞬思った。

のだけれど。

大間違い。そんなもんではない。

人間じゃないスピーカーが勝手にワーワー歌いはじめ

黙り、ボリュームをあげたりとかいうことがあると、

なんか神様に操られているような神々しい時間が

訪れるから、めったにない感覚だった。

なんだろう?すごく生命に囲まれているようでもあり、

一方、死体に抱かれているようでもあり、聖俗乱れて、

本当に聖地のようだった。

いやあ、音がまわる、ライトボックスはたまらない。

好きなんだなあ。

取材に基づくとは「大地の子/山崎豊子」

もはや、本当にこんなことが?という感覚を

もってしまう平和ボケ世代。

実際に起こったことを取材を通して、

話の中に封じ込めていくのが山崎さんならば

あまりにあんまりな非情な事実。

残留孤児たちが受ける差別と実際に日本が行った非道が

バランスをもって天びんにかけられているならば

神様の天びんはあまりにも残酷に、子どもたちに

苦難を強いていく。何も解らずに自分の人生が

嵐の真っ只中にさらされている1950年代。

本当に命がけだったり、本気で何かに取り組む、

瞬間に僕らはどっしりと向き合っているだろうか?

中国に吹き荒れる、歴史の流れにもう翻弄されまくる

ひとりひとりの人間。無力でどうしようもないのに

自分の人生を諦めないすさまじい想い、志。

結局は、人生を形作っていく、人の絆。

それも、血とかそんな単純なものでは語れない

生きることの本質に迫る、結びつき。

最後に「わたしは大地の子だ」という主人公の一言の

あまりにも重いタイトルせりふに言葉を失った。

信念と自分の人生を自分で切り開く力を大事にしたい。

2009年5月21日木曜日

3つあわさって「椿会展2009」

力になるといいのに・・・と思ってしまう

資生堂ギャラリーの椿会展。あの広さの空間は

決して広くないから、解け合うと面白そうだけど、

そこまで個と個がぶつかりあって、融合している感じも

なかったなあ。ここでしか見れない感じはない。

伊庭靖子、祐成政徳、塩田千春、丸山直文の4人で

trans-figurativeというテーマで新作を発表。

丸山さんのふわっとした色と背景が溶けていく感じは

相変わらずすきなのだけど、中でもstoryという画は

いろいろなモチーフが消えながら立ち上がってくるような

不思議な感覚で、甘ったるいけどコワイという

あまり味わったことのない印象で面白かった。

圧巻だったのは、塩田千春さん。あまりいろいろ見たことない

作家さんだったのだけれど、空間に黒い糸がクモの巣のように

張られて、その真ん中にクラシックなミシンが。

「無意識の不安」と名付けられた作品で、本当に

見ているこっちが、そのミシンの主のメンタルを

心配したくなる感じだった。よく人を見ると、

「ああ、この人はダメだ」って感じることあるけど

その状況が目の前に現れてしまうのだ。

なんかジョジョとかそういう漫画で見たことある

渦巻く不安が線でびやびやと空間いっぱいに。

気分悪くて、最高でした。

押し切る受け流す「五月大歌舞伎」@歌舞伎座

見た演目は次の通り
暫(しばらく)
寿猩々(ことぶきしょうじょう)
手習子(てならいこ)
加賀鳶(かがとび)

まあ、勉強中なのでまるで演目を見たところで

見所とかもよく分からない。正直でたとこ勝負。

「暫」は主役で出てくるのは海老蔵。

もう十分に準備されたところに、いよいよ登場!

という非常においしい話で、まさに花形向きの演目。

なんだか非常にオレ様で、それは歌舞伎をしていても

十分ににじみ出てて、もう鼻につくんだけど、

それでも見入ってしまうキャラの濃さ。声のよさ。

なんか動くだけで空気が振動するスゴさ。

何が悪いと、力で押し切る美しさ。

あとは、バカみたいにデカイ衣装で十分に邪魔なんだけど

それを着るに値する主役なんだ!ってことを

みんなが認識するには非常に有用な装置で

時に常識をはるかに越えちゃうことも大事なことなんだと

小さくまとまる自分を反省する。

「加賀鳶」は悪党の話なんだけど、菊五郎という人が

主役をやっていて、まあ、のらりくらりと超脱力なんだけど

心がふととらわれて、なんなんだ?この人と思ったら、

名人なんだそうだ。すごく上手な人らしい。

もうね、ひろいのに、まるで気張らない。

ちょっと言っちゃおうかな、みたいにぽろっと言葉を

発したりするんだけど、それが絶妙なのね。

客に力を受け流して、全部力に変える合気道みたいな

歌舞伎だった。最後のだんまりというらしいんだが

暗闇コントみたいなところは、残像が見えたもんなあ、

ゆっくりすぎて。

この2つの主役の違いに、大満足でした。

寿猩々(ことぶきしょうじょう)
手習子(てならいこ)

この2つを楽しむまでには

まだまだ自分の目は肥えていないのでした。

たくさん見て、心にふれるようになるといいなあ。

みどころを松竹のHPから転載。

一、歌舞伎十八番の内 暫(しばらく)
鶴ヶ岡八幡宮に、清原武衡(左團次)が鹿島入道震斎(翫雀)、
那須九郎妹照葉(扇雀)を始め、
大勢の家臣(市蔵・亀蔵・男女蔵・亀三郎)たちを引き連れて現れます。
そこへ加茂次郎(友右衛門)が、桂の前(門之助)や
宝木蔵人(家橘)、局常盤木(右之助)のほか、
自らの兄弟(亀寿・萬太郎)たちと参詣にやって来ます。
すると武衡は加茂次郎の咎を責め、
成田五郎(権十郎)に首を刎ねるよう命じます。
 その時「しばらく」と声がかかり、
鎌倉権五郎(海老蔵)が駆け付けます。
やがて武衡の悪事を暴いた権五郎は、
紛失していた宝物も小金丸(巳之助)の働きによって取り戻し、
意気揚々と引き上げていくのでした。
荒事の魅力溢れる舞台をお楽しみ下さい。

二、寿猩々(ことぶきしょうじょう)
酒を好物とする猩々(富十郎)が、
親孝行な酒売り(魁春)のもとに現れ、
今日も酒を所望します。
そして酒に酔う猩々は、嬉しそうに舞い始めます。
能をもとにした作品で、重厚な色合いの義太夫舞踊です。

手習子(てならいこ)
春の野辺に、手習いから戻って来たお駒(芝翫)が通りかかり、
いろは歌に合わせて可憐に踊っていきます。
長唄ならではの華やかさ溢れる舞踊です。
対照的な舞踊を続いて上演します。

三、盲長屋梅加賀鳶 加賀鳶(かがとび)
加賀鳶と定火消しの間で喧嘩が起り、
日蔭町の松蔵(梅玉)を始め、雷五郎次(左團次)、
春木町巳之助(三津五郎)、御神輿弥太郎(團蔵)、魁勇次(松緑)、
昼ッ子尾之吉(菊之助)、虎屋竹五郎(海老蔵)が勢揃いしますが、
天神町の梅吉(菊五郎)がこれを止めて事なきを得ます。
一方、悪党の竹垣道玄(菊五郎)は、
女房のおせつ(東蔵)とその連れ子のお朝(梅枝)を、
按摩仲間のお兼(時蔵)と共に虐げていますが、
お朝が伊勢屋の主人から小遣いを貰ったことを聞き、
ある悪巧みを考え付きます。
そして道玄はお兼と一緒に伊勢屋与兵衛(彦三郎)を
強請りに出かけますが…。
河竹黙阿弥が五世尾上菊五郎のために
書き下ろした世話物の名作をお楽しみ下さい。

2009年5月19日火曜日

おっぱい不足「おっぱいバレー」

何はともあれ、おっぱいが不足しているだろう。

綾瀬はるかさん。

いくらなんでも露出なさすぎだろうと、がっかりする。

生徒が沸きあがるキモチにシンクロできないよ。

このおっぱい具合では。

はじめて生徒たちの前に出るところも

かわいい先生ではあるものの、

ちょっとHな先生感はまったくなく、

だからこそ妄想できるのだという向きもあるだろうが

中学生ってそういうもんじゃないだろうと。

もっと直接的だろうと。エロの感じ方が。

最初くらい、ちょっと薄手の、バストを感じるもので

なければ、どうにもならないのではと思ってしまう。

ヤッターマンの深田恭子もラフの長澤まさみも

そこらへんは映画のニーズわかって、ちゃんと

こなしてきたはずなのに、なぜ守る、綾瀬はるか。

そして、本当に感情の機微が薄い役で、

表情に動きをつけるのが難しい脚本だったのだけれど

もうその難しさに完全に置いていかれて

うむむという感じだった。どの瞬間も3つくらいは

別々なキモチがあるからなあ。

ただし、かわいいという意味では最近の

綾瀬はるかは本当に神がかっていて、

もう手に負えないほどにかわいいから

それを愛でる意味ではちゃんとしてる映画だ。

ひとりひとりの気持ち「関数ドミノ/イキウメ」@赤坂レッドシアター

軽いSFミステリーな感じが本当に世の中流行ってる。

誰に聞いても東野圭吾が好き!みたいな風潮。

ちょっとした超常現象があって、

そこに意外などんでん返しがあって、それを待つ。

話はすごくよく出来てる。

ドミノって、何かを望んだら、自然と世の中が動いて

その人の希望どうりのことが起こる人のこと。

ヒトラーとかもそんな人で、権力を手にするまで

何一つ非合法なことなんかしていないと

舞台中に高らかに語られたりする。日本って平和。

で、日本って平等で自由なのね、病的に。

話の筋とは別にひとりひとりの人生の方が

よっぽど気になってしまうのが最近のこの手の

舞台の残念なところ。

いかに謎解きを鮮やかに見せるかに集中していくと

どうも、ひとりひとりの人生が置き去りになる。

しかたないことかもしれないけれど、惜しい。

人が超常現象に出逢ったときに、狂っていく、

寄りかかっていく、そんなキモチの弱さが端的に

一気に描かれていて、怖かった。

周りをみてばかりいると、どうしても忘れる

自分自身の核みたいなものがある。

最終的に周りのことしか語らないのは

あまりにも悲しいし、生きている実感がなくなって

そんな人が大挙して出ている舞台に

まさに今の時代を感じたりするものだ。

2009年5月12日火曜日

それぞれの幸せの想い「Story of … カルティエ クリエイション~めぐり逢う美の記憶」@東京国立博物館・表慶館

目がくらむようなキラキラと、

みたこともないような造形のセンス、

うらやましくなるような細部へのこだわりに、

時代を越える人をひきつける力。

まあ、とにかくカルティエのクリエイションのすごさを体感。

バックグランドにある教養とかを感じることが出来るのが

ハイジュエリーのすごみだなあといつも思う。

見た瞬間に、客も作り手も何かのお話を嗅ぎ付けることが

出来る幸せな共犯感。

そんな、ともに何かを仕掛けることができるベーシックな

裏打ちを自分も持ちたいと願い、精進する。

ジュエリーがなぜこんな形になったのかとか

ジュエリーがなぜこの人の手元に渡ったのかとか

ひとつひとつに秘められたお話がまた濃厚で

図録をじっくり読むだけで相当楽しめる。

ワニをカルティエの工房に連れてきて

「早くしないと大きくなるわ」と言い放って、

ワニ型のネックレスを作らせた女性の話とか

家中の宝石をあらいざらいかき集めて、

全部カルティエにリデザインさせたインドのマハラジャの話。

パリの街を飛んだ飛行船乗りが発注したはじめての腕時計話。

超高級なものの裏にある豊かな人生、幸せも不幸も含めて。

にしても、グレース・ケリー超キレイ。

本当に宝石がキレイに見えて、いい展示だった。

2009年5月9日土曜日

浸って沈み込むこと「マーク・ロスコ展」@川村記念美術館

「シーグラム絵画」と呼ばれる本来はひとつのレストラン空間に

飾られるはずだった壁画が、世界中から集められて一度に15枚を

見る事ができるという貴重な機会。

といっても、それほどマーク・ロスコがっつりはまったことがなく

ありがたみの実感は少ないんだけど、とにかく行ってみて、

感じてみようと決めた。

とにかくバカでかい赤っぽい、紫っぽい画が空間に配置されている。

「瞑想する絵画」というように、その空間に入ったところで、

さして気持ちがぐらつかない。うーむ。

でも、瞑想しなればと、結構長い時間いると、くるわくるわ。

さざ波のように自然の色が見えてくる。

本当にレストランに置いてあって、フルコースなんか食べたら

ちょっと感動する空間になったかもしれない。

夕日でもあり、朝日でもあり、血の色でもあり、

岩石の色でもある。ちょうどエアーズロックとかの真っ赤に染まる

感動的な瞬間にも似た激情も秘められている。

目の前にひろがる空間がどこまでも抜けていく

静かな静かな音のない景色の感動はなかなか味わえない。

やはり、セットで飾られるべきものが集まったときには

なんか計り知れない磁場を生み出したりするものだ。

海山十題のときも、伊藤若冲のときも思った。

そういうの好きだというのもある。

画家が考え抜いたプランに浸るのは、時間がかかるが、

すべてがパズルのように動き始めたときには

とんでもない感情の揺さぶりが隠されているケースが多いなあ。

それにしても、川村。遠いけど、とんでもなく豊かな建物。

常設展もすさまじいラインアップ。居心地よし。