2009年12月15日火曜日
少しづつ老けて「日本縦断大転生ツアー2009 -ナイン・ライブス-/コンドルズ」@東京グローブ座
少しづつ老けていくことが、プラスに働くこともあるだろう。
今が一番しんどい時なのかもしれない。こういう集団では。
勢いが緩慢になった感じがして、ギャグがルーティンになる感じも。
残念だけど。
続けることの本当に難しさがあるなあ。
ダンスのアンサンブルの妙みたいな、突然そろっておお!とか
あんな太い人が、一生懸命踊ってるよ!とかそういう類いの
刺激っていうのは見慣れちゃうと切ないほどに強度を失う。
なつかしロックで大盛り上がりっていうのも、もはやきっと
どこでも見慣れた景色だろうし。
あまりにも冷めた自分に、違和感すら覚えた。なんだろう。
なんだろう。
年とったのかなあ。いやだけど、アナーキーを受け入れない感じ?
目は確実に肥えていくけど、こういう刺激モノが生きていくには
何かかっこたる濃厚な、コンセプトとか、想いとかが
必要になってくるのかもなあ、悲しいけど。
圧倒的な美的センスに満ちていれば別なのだろうが。
グッズを必死にロビーで売る役者たちも、もはやシャレになっていない。
その姿がシャレになっているうちがいい時期だったのかもと思った。
学ランでダンス。
そのまま男子のおふざけ。
みたことない感じがなくなったあとの、そこに残る美学ってなんだ?
このダンスシーンは超斬新っていうのがなかったなあ。
哲学が支える。「建築家 坂倉準三 モダニズムを住む|住宅、家具、デザイン」@パナソニック電工 汐留ミュージアム
その流れをくむっていうことで日本でも大活躍。
国立西洋美術館とかはコルビュジェの右腕としてばりばり活躍、
青山の岡本太郎邸とか不思議な空間感覚とかも
その影響はわかりやすく、高い吹き抜けとかいいなあと思います。
今となっては割と当たり前かもしれない
広い空間に大きな屋根をバーンとはりつけて、
中の壁組で印象をどんどん変化していくのとか
もだーんだったんだろうなとしみじみと。
でも、彼のこんな言葉に、ぶれない軸には意味がある。
哲学があるから頑張れるとも感じたのでした。
「建築家は誰よりも人間に対する
深い愛情をもっていなければいけないですね。
心の底から人間愛をもっていなければならない。
建築家としての素質としてもっとも大切なのは
人間愛をその人がもっているかどうか
ということだと私は思います」
うーむ。フランス。
哲学って、西洋に行って磨かれるのでしょうか?
あとは、事務所の仕事としては、都市計画なんかもあって
西新宿のバスターミナルとかもそうらしく、
その様子を定点のカメラで撮影した映像があって
これが生き物みたいで気持ち悪かった。
止まらない都市眠らない都市というのは
やっぱりうにょうにょと不気味な様子がして
気持ちが落ち着かない。ものだ。
ザ!総合芸術「アイーダ/ミラノ・スカラ座」@NHKホール
見たことがなかったが、見てみたらものすごかった。
唄の超人がぞろぞろ出てきて、
バカでかいセットが信じられん転換をみせ、
美音の生クラシックが鳴り響く。
こんな三種の神器がそろえば、心に響かないわけがない。
テレビでみるのと全然違うのなあ、やはり。
音圧というか音の重なりが違う。
ちゃんと悲しいシーンでは悲しい音が何層にもなり
時に、音は勇ましく、声は悲しく、セットは晴れやかなんていう
不思議な時もあり、それで気持ちがまたぐいっと動いたり。
敵どうしの姫と王子が恋に落ちるというベーシックな話なんだけど
初演はスエズ運河開通記念に作られたらしい。
そうか、すごいな。歴史に刻まれてた瞬間にあわせて
その地域をテーマにしたオペラがおろされるって。
エジプトとエチオピアの話で、エジプトファラオ的なセットに
もう百人くんだりの人間がのぼって、わんわん歌う。
しかも、その音の渦を、主役の声が突き抜けてくる。
はまったら、おそろしい、オペラの世界。
いくらあっても、足らないわ。
おっさん、おばさんが休憩時間にはホールに満ちていて
スーツ観客の山にも久々に遭遇した。金持ってるわ、日本人。
心の奥底に潜る「ザ・ダイバー/野田MAP」@東京芸術劇場小ホール
どんどん潜っていく。女は多重人格でことあるたびに
あらゆる人格になって立ち上がるのだけれど、
まあ、いちいちドロドロと粘りつく。愛情と憎悪がからむ。
シーンは能やら源氏物語やら現在やらを次々にジャンプして
一見複雑だけど、そのおかげで女の気持ちがなにも
今という時代に特殊なことじゃない、
普遍的な強い気持ちなんだと思わせてくれる。
単純な流行とは違う、もっと人間なら誰でも
もってきたんだなあ、独占欲とこわくなる。
「ひとりの気持ちを自分のものにしたい」という
正妻と愛人の想いのやりとりが4人も子どもを
葬り去り、しかも、それが確実にひとりの人格を
壊しきるというリアル。
深く潜っていけばいくほど、見てはならないけれど
みなくてはならない、人の愛情の深淵がひろがって
気持ちにどーんともたれかかる。
何してもいいやという正義は
法律での正妻に認められているのか?
だけれども、その正義によって
自分の気持ちを持ち崩し、壊れていくその人自身の
かなしみとかわびしさ。
うーむ、深い。ダイバーだけに。
新しい生命とか、連綿と続いていく命とか
そういう人類が持つ生命力みたいなもので終わり
一見、救いありそうだけど、そんなこともないだろう。
人が壊れる恐怖を見事に大竹しのぶが演じきる。
ブームから生まれるブーム「1Q84/村上春樹」
それでもやっぱり気になって、読んでみたら、面白い。
ブームといってはなんだけど、新興宗教のあり方とか
人がバラバラと自分の人生だけに責任を持つ感じとか
殺すといくことが割とさらっと起こっていくとことか
財産を持つということが、世間の目に見えにくくなっているとことか
マッサージが重要なところとか
仕事と人生があまりにも残酷にリンクしていくところとか
その仕事が割と自分で選べてしまうところとか
ウソみたいな現実が、すぐ隣に音もせずあるところとか
それなりに小さな仕事にもプライドを持って生きているとことか
大きな権力を持つことが大きなあきらめにつながるとことか
天然な子が不思議なことを見通しているとことか
女子が世の中の軸を動かしているという裏のこととか
とかとか
ブームを読んで読んで、そこから確かに今の時代に
書かれた小説であるということをしっかりと感じることができて
で、ちゃんとブームを生んじゃうすごさ。
感心した。
見続けること「ハリーポッターと謎のプリンス」
超越し始めているハリーポッター。
普通に成長していく主人公たちのリアルライフも
同じように思春期を通り過ぎ、なんだか恋の揺らぎも
使命感とか運命とかへの抗いも見事に画面に焼き付いていて
本当に楽しめる。
ハーマイオニーは相変わらずポッターに気持ちを
伝えず、その嫉妬っぷりはいい感じにイライラ。
可愛くなった可愛くなった、エマ・ワトソン。
リアルライフも賢くて、よいなあ、こういう同時進行。
やらなくちゃいけないことが決まっている若者たちが
その事態そのものにいらだちとか迷いとか感じるのは
役者たちがこのシリーズを全うしなくちゃいけないことにも
重なって、ムダに思い入れてしまう。
ダンブルドアの圧倒的な力に老いを感じ始めるあたりも
人生の憂いがあって、深い時間の流れがぐっとくる。
どんどんトーンが暗くなるシリーズ。
果たして、どす黒い結末は、映画でどのように描かれるのか?
楽しみだ。
2009年10月31日土曜日
泣けるっていうけどさ「サマーウォーズ」
でも、クリエイティブな人たちは好きな人が
すごく多くて、ちょっとはっきりは言えない感じ。
ダメでしたとは。
ネット空間と現実とのあり方をすごくうまく行き来してて
とか言われてたんだけど、そうかあと言う気もして、
むしろ、やっぱり現実の気持ちが浅く思えてしまった。
人間がペラペラな感じ?
どうも、時をかける少女(アニメ版)もそうだったけど、
そんなに人間の気持ちがコロコロ変わりすぎるのが
どうも苦手。芯がない気がしちゃう。
そんなんで、寝返るか?とか。
そんなんで、応援する気になるか?とか。
キーパーソンのおばあちゃんはあっけなく死んじゃうし。
それを乗り越えるきっかけが、事件と密接に関わりすぎてて
引く感じ。そのさじ加減が合わないんだと思う。
思い切りべたな方がまだ、すがすがしい。
ちょっとサブカルなかっこよさ残すんなら、
思い切り魂売り飛ばして欲しい。そう思った。
でも、映画館は満員だし、泣いたと言う大人は多いし。
なにせ知識人の評判がいい。たぶん、あれだ。
安心して褒めることが出来るんだな。
と、少しひねくれて思ったりもした。
個人の持ち物?「ベネッセハウス/ミュージアム棟」@直島
ものすごい事になっている直島。
まあ、会社が持っているんだけど
実際は福武さんの考えひとつで進んでいく。
いやあ、お金があるってすごい。
なんか、こういう住まいと
一緒になっている建物に来ると、
一段とすごさを感じるなあ。
こんな景色の中に、こんな作品を置きたいなあとか
作ってもらいたいなあとか、そんな妄想の中で
世の中と関わることが出来るなんて、素晴らしすぎる。
どうしても、シマ次郎とかと結びつかないんだけどねえ。
あれを生み出しておきながら、文化事業で
こういうことを押し進める理念もある。
よく生きるって難しい。
作品的にはぐっときたのは、ブルース・ナウマンの
100生きて死ねという作品。
ネオンで100個のフレーズがあって、歌ってから死ねとか
食べてから死ねとかが明滅するというやつ。
コンクリートの無機的な空間にじんわりと光る
ネオンが直島という場所でたたずんでいると
ああ、命って明滅してるんだなあと感傷的になったりする。
都会だと、これもまた違うんだろう。感じ方が。
あとは、そこここにある、須田悦弘の野草。
コンクリートの割れ目にそっと生えている。
目立ちたいのか?目立ちたくないのか?分からないけど
とにかく、しっかりと生えているように見える。
完全な石から活き活きと緑が生えているのは不思議。
さらに、リチャード・ロングの十五夜の石の円。
見える海といつかに作られた岩がまるく人の手で
並べられるだけで妙に悠久の時を感じる。
場所の力ってあるなあ。
2009年10月26日月曜日
モノは言い様「南寺/安藤忠雄&ジェームス・タレル」@直島
土地の記憶を失わない形でアートを収める
ハコをつくるというコンセプトで
新しい建物はドカンとある。
ただ、全く土地の記憶がそこから読み取れない。
なんだか、えらそうな感じ。寺って人の気持ちが見えないと。
安藤ですって感じと、そこそこで儲けちゃえみたいな感じと。
あとは、外側が杉かなんかの焼板で作られていて
それは瀬戸内では昔はあった手法なんだそうだけど
あまりねえ、生きていない気が。どうだ?とこれ見よがし。
権力が見えてくるなら、思い切りゴージャスにしてと思う。
庶民のふりとかいらない。
ものすごい雨が降っていて、屋根も雨どいなどなく、
スパッと切り取られていて、すごいリズムで雨だれが起こっていて、
その音は本当に神さまを感じるようなものだった。
雨の音をあんなに心にしみて感じたことはない。
ジェームス・タレルの「Backside of the Moon」という作品が
中にあるんだけど、真っ暗真っ暗の中で目がなれてくると、
ぼんやりと切り取られた世界が見えてきて、
影の中にも光があることを感じることが出来る仕掛け。
哲学だなあ、言い様だなあ。これは。
美しいかといえば、そんなことはないだけど、
確かに体感したことはない感覚で、ありがたい感じがしてしまう。
でも、なあ、微妙。
2009年10月22日木曜日
本当に神様はいるぞ「護王神社/杉本博司」@直島
神社が老朽化したため、杉本博司が設計。
なんかまだまだ白木で新しく、そこに神様?って
感じだったんだけど、いやいや、むしろだからこそ
神様の居場所としてありがたいのだ、と後で思う。
考えてみれば、伊勢神宮とかもいつもいつもフレッシュ。
古いものに神様があるという考え方もあれば、
神様を祀るからこそ、新しくてキレイでよいという
考え方もある。なんか切り立ての樹だから妙に生気があって、
ある意味生々しい。どろっとした妖気。
本殿と地下にある石室をつなぐガラス階段は、
外にいた神様がやすらぐために、石室に入ることが
出来るかのように浮かび上がる。
すごいなあ、ロマンだなあ。神話だなあ。
石室の石とかも、本当に力がある。まさにパワーストーン。
どっかから超巨大な石を運んできて、くりぬいたらしい。
神社の床下にある、そんな石室に、入れるという
ふとどきな企画なのだけれど、細い細いコンクリートトンネルを
抜けると、真っ暗な中に透明な階段を透けて漏れる外明かりが
石室をぼんやりと照らす。そこは神様の居場所。まさに。
なんか、たくさん、たくさん、願った。
これは叶うと思った、リアルに神様を感じた。
で、出るときに、再び驚き。さっきのトンネルが額縁になり
海だけが切り取られている。まさに、リアル海景。
それは、神様の生きた?時代とまったく変わらない景色。
人と切り離された、けがれない世界。
神秘体験をさせていただいた。すさまじい現代アート。
タブーとかないのな。それで体験できるのが本当によい。
2009年10月18日日曜日
人が住む気配に刻まれる時間「角屋/宮島達男」@直島
街中でアート作品をみつけて入る直島。
ほんと突然に出てくるし、町並みに潜んでいる。
素晴らしい。
見つけた古民家に入ると、家の居間に暗い暗いプールが。
その水のなかに沈む、例の1〜9までのデジタルカウンター。
島民の人が、そのテンポをそれぞれに決めたらしい。
めちゃくちゃ早いものから、めちゃくちゃ遅いものまで。
宮島さんの作品って、すごいグッとくる時と
そうじゃない時が激しいんだけど、やっぱりなんとなく
時間軸を人間が分かりやすく感じる時に気持ちに入る。
なんかこの日は雨の音が妙に今の時間を際立たせていて
その今の時間と、今までに刻んできている歴史的な時間を感じた。
しみた。
あとは、たまに水面がゆらりと揺れるのね。意図せずに。
それが、また、人をくらりと翻弄するようで、
命をグラリと揺さぶるようで、普段は見えない時の流れを
意識することが出来た。
生活に潜ませるアート作品は、心に効く。
2009年10月6日火曜日
地中だから光を感じる「地中美術館」@直島
中に入っていくと、広がる安藤忠雄ゾーン。
自然の中にある、この人の建築は本当に美しい。
やっぱり、コンクリートの壁の向こうにあるものは
断然の自然であるからこそ、あのつるつるコンクリートが
映えるのだといつもいつも思う。東京のは嫌い。
そして、ぐるぐると回る回廊や、斜めに傾いた壁、
自分の目線の部分だけが切り取られた壁など、
様々な形で自分の感覚が日常から剥ぎ取られていく。
そして、なんだか自分の感性がリフレッシュした先に
美術作品が。暗い闇の先に、光が冴える作家のわずかばかりの
作品が贅沢に展示。どれも身体まるごと浸る形のもの。
クロード・モネの睡蓮は、白い壁と白いタイルに囲まれた
真っ白な部屋に掲げられ、絵からあふれ出す色を体感できる。
絵のふちが空間に溶け出して、自分がそこにぐいっと吸い込まれる
不思議な気持ち。空気そのものが、絵に支配されていく。
それから、ジェームス・タレル。オープン・スカイは相変わらず
見たことあるはずの空の青を、まったく見たこともない澄んだ青に
変えてくれる。
もうひとつのオープンフィールドは、光の中に身体を沈めていく
ような作品で、夕焼けのような真っ赤な光に、突っ込んでいく、
自分の身体もこんな光の粒粒で出来ていて、溶け込んで気持ちがいい
そんな未知の実体験が出来た。
なにより、写真とまったく違って、行ってよかったと思ったのは
ウオルター・デ・マリア。バカデカイ黒い玉のある巨大な部屋の
周囲には27体の金箔の塗られた彫刻が整然と並んでいる。
そして、空が抜けている。空の光は刻々と変わり、玉に映る金色も
空色も一時も止まっていない。
そして、全体が大きな階段で出来ている。登ったり下ったり。
座ったり、立ったり。時間の流れをひしひしと自分の中で
くっきりと感じることのできる神々しい皮膚感覚。
あんまり聖的なものって感じないんだけど、もうちょっと泣きそうだった。
神様、いるなあと思った。
あとは、この今という時間は、昔とも未来ともつながっているなあと
センチメンタルな気持ちになった。
地中から出ると、そこにあったのは水平線だった。
また、これが、時間を感じる、
昔昔の地下から今、この瞬間が過ぎる地表に出たのに、
昔から変わらない水平線が見えるっていうあたりのロマン。
すばらしいです。
分からないし想像できないし「来来来来来来/劇団本谷有希子」@本多劇場
少なくとも身近にいる女子たちが感じている
世の中への不条理が、濃縮されて、搾り出されて、
どろどろと溶け出しているような舞台だった。
あんな情念は、わからないし、想像もできない。
自分のあり方を見失っている人々が、東京から離れた
田舎に集団で生活をしていて、もうかなりの虐げられた
生活をしているんだけれど、それでも自分のあり方とか
居場所みたいなものを失わないならば、そのことを
幸せに思えてしまう、思わないと壊れてしまう、
そんな女子たちがごっそり出てくる。次から次へと出てくる。
一番まともそうなやつでさえ、平気でうんこを手で掃除したりする。
人を狂ったほどに、ののしったりする。ガンガン叩いて虐待したりする。
だんなの暴力に笑いながら耐えていたりする。
みんなの想いは、ひとつに感じる。
わたしはここにいてもいい。
それを認めてもらえれば、どんなに生活が悲惨でもなんだか耐えられる。
女子の思い込み力というか、なんというか。
男子はあまりそういうのはない。特に今の男子は。
だから、もしかすると、軟弱なのかもしれない。
意思というか、思いが現実を凌駕していかない、ほどほどだから。
まあ、想像つく範囲でしか認められない。生活できない。
見ていて、悲惨だな、女子の世界とも思ったが、
これがあるから今は女子の方が骨があり、前に進んでいくパワーに
満ちているのだろうと思った。
気持ちは残る「コクーン歌舞伎/桜姫」@シアターコクーン
死んだ人の怨霊が…という考え方が、能やら歌舞伎やらには
しっかりあって、この世の中はそういったものがあるから
とってもエモーショナルな感動的な、ある意味恐怖なことが
起こって面白いという、ことなのかな?
身体の感覚として、ああ、そうだなあ、それは
こわくて、かつ面白いなあなんて気付いたことはなかったんだけど
今回、現代版と歌舞伎の桜姫を見て、なんだか一番考えたのは
そこだった。人が消えるということの不可思議を、生きている
人間の気持ちとうまく結びつけて進んでいくお話は、
あの世とこの世のつながりをイメージしないと何の深まりも
見せない嘘っぱちなものになってしまうけれど、
愛し合う中で身を投げたり、生き残ってしまったり、
それを悔いてみたり、喜んでみたり、非難してみたり、
結局、どうしようもない戻ることのできない時間の中で
感情が右往左往するのはたまらなく面白いなあと感じた。
現代版の方を見ただけだと思わなかったんだけど、
オリジナルの歌舞伎の方とあいまったときに
しみじみと考えさせられた。あとは、そういう世界を失っている
今っていう世界ってどうなのだろう?とか。
気持ちは逆にどんどん薄っぺらになっているのかも
しれないなあとふと思ってしまった。
それにしても、歌舞伎役者さんって、やっぱり上手い。
アドリブに近づいていけばいくほど、場数が違うからか、
型があるからか分からないけれど、妙に場にしっくりと
生きながらえる。なんか小笑いとかが異常にうまくはまる。
あの技はなんだ?あれ。
英語が分からない「ヴェニスの商人/プロペラ」@東京芸術劇場
また、最近視力がかなりへたってきていて
字幕も小さいもんだから、まあ見えない。
頭に刻み込まれた筋を追いながら見るも、
かなりシーン作りそのものがイメージに即した
アレンジが濃厚にされてるため、ときおり見失う。
観劇しながらところどころ脱落しながら
かろうじてついていくという不思議な体験。
芝居そのものは面白かった。野田秀樹が呼んだらしいんだけど
「らしい」というか非常に「動く」集団だった。
男ばっかりの集団で、手品っぽいこともあり、
手に楽器を持って奏でるアンサンブルっぽいこともあり、
ピエロのように飛び回る狂言まわしがいたり、
言葉にしちゃえば創意工夫?をガンガンおしてくる感じ。
それを深いテキストで支えていくというつくり。
ちょっとテキストが浮いている気もしたんだけど
英語取り残されてるから、確信がもてず。
もともとイギリスでは田舎の水車小屋を常小屋に
しているらしく、確かにそこの方が圧倒的に映えそうな
舞台だった。なんか、近代的なちゃんとしたハコに入ると
遊び心が浮いちゃって、荒く見えちゃう損もあるなあと。
みなさん、ちゃんと制度が身体に乗っている感じもあって
しっかり遊ぶという空気でのびのびとはしなかったけれど
でも、見たことないヴェニスの商人で楽しめた。
2009年9月16日水曜日
光るモノが好き「WHITE/鈴木理策」@ギャラリー小柳
光るものが好きなのだと気付き始めた最近。
とにかくアートでも光をテーマにしたものに
ぐっと心を惹かれることが多い。
雪をテーマにした真っ白な写真は光に満ちている。
その白い色は、雪そのままを見ても感じることができず
写真になった瞬間に出てくる色で、この人のそういう類の
色はいつもいつも感心する。
なんだかピュアなのだ。
そぎ落とされたすっきりした色を感じることができる。
そういうのがあるから、写真にする意味があるんだと思う。
雪だけを撮っているのに、なぜか崇高な感覚さえあるのは
世界を違って見せてくれて嬉しくなる。
そこに、ほんの少し見える緑の生き生きと生ける姿。
その緑のフレッシュさ、命の力。不思議。
結果として、地球ってピカピカで、そこにある自然は透明で、
生きる命はミラクルだと、静かに静かに
感じることのできる写真たちだった。
ふと見た色は、目に映る以上で、心に残ることがあり
そんな景色を見事に写真に残すことができる写真家が
うらやましい。
泣け!これで泣け!「ROOKIES」
心に響くことがある。
学園祭とかそうだった。さしてうまくないのに
なんか必死にぶつかっているのを見て
胸が熱くなったりする。
そういう類の映画だと思う。
画も別に凄まじいわけでもなく
ストーリーも先なんか全部予定調和で決まってるけど
そのとおりになっていくさまを、ぐっと見る。
はい!スイッチを入れてねというところで
これでもか、これでもかと単調なほどにテーマが
なりまくる。でも、それがキモチいい。
そんなテンションを支えているのは、きっと役者たちの想い。
みんなみんなどうしようもなく、この作品を愛しているんだと。
今の彼らに出来るすべてをぶつけて、ここにいるんだと。
そういうのって、学生演劇とかもそうだよなあ。
なんか、全力でできること何もかもやるっていう。
計算して出来ない分、無我夢中でやって、
結果、変な形でブレイクスルーしたりするんだよなあ。
あとビックリしたのは、前にいた女子が
本気で映画の野球を応援していたこと。
そんなにどきどきできないだろう?と思ったら
ほんとにヒット打ったら、キャーとかいって手をたたいてた。
脚本なのになあ、わからん。ああいう女子。
エロイ話から深い話のギャップ「愛を読む人」
頭よわい30代の女性がインテリ10代の男性に
セックスを教える代償に毎晩毎晩、本を読んでもらうという。
なんだ、その千夜一夜。
まあ、ここまでの設定を聞けば、もう直球エロ映画。
と思って身構えてみていたら、とんでもなく深い話に
なっていく。そんなのありというほどに。
PRは間違ったんじゃないか?
これは、感動涙のストーリーで、たぶん日本人は
そっちの方が好きなんだぞ。たぶん。
後半に入って、時代に巻き込まれる2人の話になり
女性の方はホロコーストの実行犯として戦後つかまって…
という信じられない展開に。ええ!大河ロマン?
で、もともと字が読めなかった彼女が、
かつて彼に聞いた話の本を、必死に繰りながら
文字を覚えて、最後の最後にその文字でラブレターを
書くという、壮絶な50年史。
だった気がする。そういう感じで心に刻まれた。
いやあ、振り幅ってすごい。なんか複雑な気持ちになった。
泣いていいのか?なんなのか?
熱気とはこういうことか「エヴァンゲリオン 破」
でも、停滞しても、ちょいちょい書くと
結構あとで読んだりするから、がんばって食らいつく。
もう7月のことでかなりうろ覚えなんだけど
この映画の不思議なところは中身よりも
圧倒的に映画館の雰囲気を覚えているところ。
新宿のミラノ座に見に行ったんだけど
あの巨大な映画館がびっしり。しかもほぼ同世代。
10代最後から30代くらいがどっさり。
青年会とかの寄り合いみたいな空気。
しかも、みんなはじまる前からエヴァ雑学を
喋りまくってる。右も左も後ろも前も。
そして、終わると衝撃のカーテンコール。
日本で映画館で舞台挨拶もなく自然に
カーテンコールの拍手が沸くのってはじめて体験。
熱。もう盲目なまでの熱。
中身はエヴァらしい混沌さはなくて、
ちゃんと整理された感情で作られているので
なんかあの頃見た斬新な多重人格ぽい売りは
失われている気がしたけど、その分、
普通の見世物としてのクオリティは高いと思った。
画もよく動くし、カメラワークの奥行きとか
アニメでしかできないし、アニメとは思えないし、
音もがんがん打ちつけてくる。
突然の童謡は、受け止め方微妙だったけど。
まあ、それはいろんなセンスがあるということで。
メガネキャラの女子が出てくるだけど
頭使って生み出されたキャラっぽくて
ぜんぜん魅力的じゃなかった。
あれ、必要だったのかなあ。
2009年7月26日日曜日
「L_B_S/名和晃平」@メゾンエルメス
「L_B_S」はLiquid、Beads、Scumの頭文字を取ったものらしい。
beadsは、よく見た粒粒ビーズ。今回が鹿がまるごと粒粒に
覆われている。なんか表面が溶け出して、空気とのヘリが
変化しているみたいで、妙に気持ち悪い。いい意味で。
こんな感覚になったことは、名和さんのを見てて初めてで
やはりフルフィギュアだと見る方の感じ方も変わるなあと思った。
ちょっとジョジョみたいな、北斗の拳的な形の変わり方ね。
で、Scumはこんなことらしい。(人の文章から抜粋)
ビーズで覆うPixCellシリーズの作品になりえなかった素材の表面に、
ポリウレタン樹脂を特殊な手法で吹き付けて制作されるという
Villus(柔毛の表皮)は、ビーズのように透明感のある素材と違い、
内部のモノはまったく見えない。
その輪郭から「仏像」あるいは「手榴弾」かな、と推測はできるが、
内部にその物体が本当に入っているのかわからない。
それは、「仏像かもしれない」し、「手榴弾かもしれない」。
一様に同じ皮膜(Villus)をまとったモノたちは、
視覚的な形状からのみ、個性を主張する。
ふわふわした皮膜を一枚かぶるだけで
物の個性というのは、ここまで失われるのかと、
ちょっと意外にも思う感じ。
たしかに影絵とかでも、はっきり分かるものって意外にない。
モノは、今ある形の輪郭をしっかりと持ってこそ
はじめて認識ができるものなんだなあと思った。
細部までちゃんと、そのものであることが大事とは
身につまされる感じがした。
で、Liquid。シリコンオイルに耐えることなく
泡が生まれては消え、生まれたは消える。
形ができては失われていくその連続を見つめていると
気が狂いそうになる。
なんかもこもこもこもこ生まれてくるのって
ゾンビみたいな感じがして、妙にざわざわする。
命が半端な形に、おもちゃに作られている感じは
勝手にこっちが思ったことだけど、そんな吐き気がした。
いい意味で。
田舎もんとは思われたくない!「エカテリーナ2世の4大ディナーセット」@東京都庭園美術館
女帝エカテリーナ2世(1729-1796)の時代、
ロシア宮廷では君主の威厳と崇高さを演出する工夫が
様々に試みられました。
女帝は衣食住にわたって「エルミタージュ・エチケット」
と呼ばれる礼儀作法を厳格に規定し、宮廷儀礼の形成に
大きな影響を与えました。
文化的な成熟度を内外にアピールする場でもあった晩餐会では、
その場を構成する全てがひとつの芸術と見なされ、
料理はもちろん、テーブルセッティングや室内装飾、
列席者の衣装に至るまで、当時最高の質と内容が求められていました。
女帝は特別な招待客のために、西欧各国の王立窯や最新の窯に
特別なディナー・ウェアを発注し、卓上を豪奢かつ華麗に彩らせました。
当時たいへん貴重であった白く輝く磁器を贅沢に使用した晩餐会は、
女帝の財力や権勢を誇示する絶好の機会でもあったからです。
本展では、日本初公開となる
ベルリン王立窯の《ベルリン・デザート・セルヴィス》や、
愛人ポチョムキン公のために注文された
セーヴル窯の《カメオ・セルヴィス》など、
エルミタージュ美術館の所蔵品より
4つのディナー・セットのコレクションを選び、
女帝エカテリーナ2世の生涯と
華麗なる18世紀ロシア宮廷生活をご紹介します。
ひとつひとつに意味があるものっていいなあといつも思う。
ベースの知識があるから理解できるウイットって憧れる。
この食器にトルコ人がいるのは、
トルコ人を支配下にいれたお祝いだからとか
この食器に描かれているのは、憧れていた最先端のイギリスの景色だとか
いちいち生活にストーリーがある美しさ。いいなあ、豊かだなあ。
相手のことをどこまでも思いながら、とにかく田舎もんロシアが
ヨーロッパの国と対等に思ってもらいたくてもらいたくて
恋焦がれて、作っていった食器の数々はよい意味での
怨念がこもっていて、熱をおびていた。
もちろん、やっぱりいもっぽさが残るのは、どうしようもないんだけど。
なんだろう、どうしても、ごてごてしていくんだよねえ。
田舎の都会ナイズは。
引き算ができない。怖くて。
足して足して、まだ足りないと、足していく。都会っぽさを。
で、結果、田舎っぽく戻っていくという滑稽さ。
我が身を思うわ。
あとは、デザインの王道はやはり自然を煮詰めていくことで
今でも残り、きちんと戦うことができているのは、
花を死ぬ程見つめ直したデザインだったりするから面白い。
人間が生み出すことができる想像力の限界ってあるなあ。
自然のなかにしかない無限の線のあり方が生み出す
徹底的な美しさは不思議と心に残る。
庭では、しきりに鳩がキスしてた。あんなに動かずに
いちゃいちゃしてる鳩をはじめて見て驚いた。
超すげえコントでアート「寛容のオルギア/ヤン・ファーブル」@彩の国さいたま芸術劇場
今の消費社会ってすごいねって話で、なんでもかんでも
おもしろがっちゃって、本当に僕らは大丈夫なのか?って
ゲラゲラ笑いながら考えて、もはや崩れてしまった
いろんな意味でのバランスをどうやって取り戻すのか?
はたまた、もう取り戻すことなんて出来ないのか?
って、またそれはそれで滑稽で・・・。
妊婦がショッピングカートに乗って洗剤を産んだり
キリストを売り出すためのミュージシャン化マネジメントとか
みんなで何回オナニーできるか大会とか
まずはファックって言って、文句をいってみようとか
そんなどうしようもないシーンなのに、
絶妙に美しく、なぜだか心にしみいるのね。すごい。
笑いってすごかったと、今までのヤン・ファーブルの
心に入ってこなさ加減を思うと、隔世の感。
欲望にひたすら飲まれ続ける毎日のなかで
テレビっていうハコについて、ヤン・ファーブルがいっていて
あれは、見てもらうためなら、タブーなく欲を利用し尽くすから
恐ろしいみたいな話をしていて、確かにと思う。
自分も、ただただ、見てもらうことを考える。
そして、刺激に麻痺していく。そんな側面がある。
麻痺した先に何があるのか?
まだ見て見たいという耐えない欲求がある。
駄話「ボス・イン・ザ・スカイ/ヨーロッパ企画」@青山円形劇場
ゆる会話で楽しめた。うむ、よく出来てる。
で、書こうと思っても、あるジェネレーションからは
絶対に書けないであろう、テイスト。
ドラゴンを退治して掃除する一団があって、
もうちょっとその仕事は、かつてかっこよかったはずなのに
今では時代遅れみたいになっていて、
悲しいかな、どんどんやる人も少なくなってて
熱意というよりは惰性で、ヒーロー性のある仕事を
続けているという、なかなか思いつきそうで
うまくはまらない枠組みを上手に使ってる。
感心。
いちいちこねたがうまい。印象。
大きい枠組みでの落としの作り方は、往年のナイロン。
そういう意味では、あらゆる90年代から00年代の
いいとこどりで出来ている雰囲気のお芝居だった。
ああ、なんか覚えておきたいネタ、結構あったのに。
すっかろ忘れている自分が悲しい。なんだっけなあ。
2009年7月9日木曜日
巨大一点もの「流れる水/塩田千春」@発電所美術館
とんでもなく豪華な空間が富山にあって、
そこで塩田千春さんがインスタレーションをやるという
またまた期待がふくらむ、キャスティング。
他には常設も何もないんだけど、とにかく行ってみた。
すごかった。
何せ、この発電所美術館が持つ磁場がすごい。
もはやスケール感が日本ではない。なんかちまちましてない。
せこくない。どーんとしてる。
だから、訪れた方も、ただただゆったりしたキモチになれる。
ヨーロッパみたい、富山なのに。
河岸段丘っていう地理で習った懐かしい地形を利用した
水力発電所の内部空間がまるごと美術館。
ものすごい天井高のところに、吊られ、ひしめいている、
病院のベッド。「命の水」というテーマで作られた作品は、
そのベッドでつくられた川にもみえるオブジェに、
大量の水がジャージャーと降り注ぐ。
そのザーという音が無機質な空間に響き渡って、
心の中をざわつかせる。
命の源の音でもあるし、
不安になったときに聞く音でもあるし、
ひんやりと落ち着く音でもある。
オブジェにはねる水、つたう水、落ちる水、
すべてが血のようにも見えて、
命が連綿とつながって、時間をつむいでいく様。
キレイにはまるインスタレーションって滅多にみないんだけど
ここのはすごかった。いやあ、すさまじかった。
何も観光地のような場はないけれど
それに喫茶店とかも、なんかよい。
豊かにゆっくりと静かに落ち着きを取り戻せる、
そんな空間。
ただ、窓が開いている。風が吹き抜ける。
ゆっくりと陽が傾く、時間を感じる。
そういう感覚も大事じゃないのかと思う。
感覚が死んでいるのか?「ダイアローグ・イン・ザ・ダーク」@青山
もしくは、
こんなに人間の感覚というのは可能性に満ちているのか?
日常というものが、なにひとつ確かなことなどないことを
まざまざと感じさせてくれる出し物だった。
真っ暗な中を10人前後のパーティーで進んでいく。
それをアテンドするのは、視覚障害者の人。
驚くことに、彼らの真っ闇を動くスピードは半端ない。
ワープしたみたいに空間のあちこちに瞬間移動する。
というよりは、自分たちがまったく動けなくなる。
もう前後左右はもちろん、上下もあやしくなって
空間感覚というものが粉みじんに破壊される。
部屋のひろさもひろがりも失われる。
そんな100%まっくらな空間の中に
様々なテーマの世界がつくられている。
森を行き、川を行き、田舎の家をたずね、
バーで飲み物さえいただける。
そこで触った木の葉や幹の様子は、まったく別物。
生きていると感じる葉脈のもっこり感。
守っていく意志を感じる幹表面のごりごり感。
足の裏が生き返る不思議な感覚。歩くということは
地面と接することで、そこには楽しみがあると知る瞬間。
水とかゆらぐ音とかいいよねえとかいうけど
心底音だけ聞く体験すると、複雑に音がからみあっている。
ブランコとか乗ってみると、ちょっと無重力体験みたいだし、
家にある様々な電化製品も触りながら当てていくと
いかに機能に特化していて、しかも自然の中には
ありえないものを自分たちが作り出しているかがわかる。
なにせ、かたくて、冷たい。
石とかは不思議とちょっとあったかい感じ、残ってる。
プラスチックとは、ぜんぜん違うんだよねえ。
飲み物とか飲んでみると、身体に入っていく、
口の中で味がしみわたっていく感じって、
まさに全身で味わうみたいな生き返る雰囲気。
それにしてもすごい体験だった。
考えて形にした人、すごいわ!このイベント。
さらに、社会的なアプローチもよろしくて、
できるだけ恒久的に行うことで、視覚障害者の
安定的な雇用も目指しているらしい。
しかも、セカンドベストな職ではなくて、
みんながやりたがる誇りを持った仕事を作りだす
という。
うーん。いい企画だ。
思い出したのだった「春のめざめ/劇団四季」@自由劇場
かけあがった話題作。春のめざめ。
ということで、まあ、これは「問題作」とも
いわれているので、見ておかなくてはと行きました。
劇団四季。春のめざめ。
だが…思い出した。これは、本当に単なるというのも
変だけど、いわゆるいわゆるミュージカル。
ライオンキングとかマンマ・ミーアとかは、
まだ逃げ場があったけど、これは本当に向こうのやつを
そのまま日本語に訳したミュージカル。
突然歌いだす、なんか歌詞も字余りみたいな、あれだ。
苦手だったのだ。思い出した。
なんか日本語になるとリズムも崩れちゃうし、意味も恥ずかしい。
歌いはじめた瞬間に、アレルギーが悲しいかな、再発。
絶対、英語版はかっこいいと思う。舞台の使い方とかは
すさまじくセンスよかったし、話のつくりも超現代的。
ネオン管と赤電球と照明の組み合わせとか
ちょっとぞくっとする仕上がりだった。
ただ、日本語ミュージカルの恥ずかしいとこが全快。
テーマもきっと、そういうがでやすいんだよなあ。
性とか思春期の問題をガチンコで扱っている作品だから
スラングみたいな言葉も出てきているんだろうし。
それを変に日本語の汚い言葉にかえると、ちょっと違う。
日本のそういう汚い言葉ってスタイリッシュというよりも
面白くなっちゃうんだよなあ。
あとは許せないのは劇場スタッフたち。
チケット売る姉ちゃんはまるで笑顔もなく、むしろ不機嫌。
最初に接する人がぶすっとしてたら、せっかくウキウキで
行ってもがっかりですわ。
あとは、観客席を見張るスタッフがいて、
ちょっと姿勢を崩していると、注意される。
そんな、見えるだろ。ちょっと姿勢崩したところで後ろの人。
そもそもあまり面白くなくて、ぐたっとしてるんだし。
四季、今回は相当がっかりした。
あとで知ったんだけど、題材が題材なので若手が多く
起用されているらしい。それもあるのか?クオリティ低下。
今の日本にして欲しかった「桜姫~長塚現代劇バージョン」@シアターコクーン
日本語で上演という長塚圭史が書いた現代版。
正直、日本の今に置き換えたときに
どうなるのかが見たかった。
もう南米にして、舞台も抽象で、どこの時代かも
ふんわりしている状態だと、言葉がはっきり現代語だから
分かる以外は、なんら条件が歌舞伎と変わらない。
そんな気がした。
考えることは考えるなあ。
自分にとっていいことが起こっているときは
自分の分身にとって悪いことが起こっている。
逆もまたしかり。要はフィフティフィフティ。
というよりは、人間ってものすごく業が深いんだろうなあと。
幸せなときももっと先、もっと先を求めてしまう。
相手を見て、自分に不足している幸せに嫉妬する。
正しいことと悪いことが同じ重さで扱われていて
人生はどうしようもなくどちらも起こりうるのだと
肌でびりびりと感じた。
そして、単なる幸せなんてありえないという
長塚ものでいつも感じる、人間への絶望はやっぱり
今回も感じて、この人は生き難いだろうと気の毒に思った。
大竹しのぶと勘三郎のベッドシーンとかあるんだけど
きついかと思いきや、ちゃんとふわっと空気がピンクに
変わったから、ふたりともすさまじいパワーだなあと
感心した。没入、入っていく感じすごい。
あとは古田新太。あの人のテンションの抜き入れの妙は
最近本当に鬼気迫るものがあるなあ。
2009年6月19日金曜日
神がかり榮倉奈々「余命1カ月の花嫁」
にしても、まあすごい。神がかり。
棒読みなとこもあるんだけど、そこすら、
今の若い子ってこういうしゃべりの子いるなあと
思わせてしまうなりきり具合。
目線の揺らぎ方とかふと立ち止まる瞬間とかの
按配がほんとうに絶妙で、順撮りにしたらしい現場の
作戦がびたりとはまった見事な若者おお化けムービー。
たまにあるんだよなあ、こういうポテンシャルを全部
使い切った感じに仕上がる、若者キャスト映画。
中身はドキュメンタリーでもおなじみで
タイトルもそのものずばりなので、まあ号泣。
よく泣いた。顔洗えるくらい泣いた。
もう榮倉奈々が笑うだけで泣けてくるし、
柄本明がケーキ食べてるだけで涙がどばっと出るし、
瑛太とふたりで自転車乗ってたりするだけで
切なくておいおい泣いた。
ここからは記憶メモ。
切った手術あとを確認するシーンも
将来のお嫁さんに悪いよというシーンも
そのあと、ようやく怖いと泣けてしまうシーンも
沖縄で乳がんの手術痕を瑛太に見せるシーンも
ホームビデオにピースするシーンも
ただただただただ涙。
ベタに浸って泣く夜もよい。それでよい。
ただただ泣いてそれでよい。
ひそかに流行るピースサイン。
日常でもこそこそと繰り出している。
そして、明日が来るならを聞くだけで条件反射で
泣ける自分に、おめでたいと感じる。
でも、それでいい。
ぼんやりと光る「project N 阿部岳史」@東京オペラシティアートギャラリー
意外と外さない。というか趣味が合うらしい。
結構いいなあ、この人。欲しいなあと思うことが多くて、
高木紗恵子さんとかもここでやっている。
たぶん結構自然光が入って明るい通路みたいな空間なので
自分自身が好きな色が出やすいんだと思う。
明るくてぱっとして、それでいてべたべたしない、
さらっとぱきっとした、気持ちを押し出す色たち。
今回の阿部さんは、単色の小さなブロックをたくさん
配置して、離れてみるととあるぼんやりした景色が
浮かび上がってくるという色彩分割みたいな考え方を
現代版でやっている人。(だと思う)
まあ、この人の今まで作ってきたものを全部見たわけでは
ないけれども、ほどよい今の距離感だなあと思って
面白かった。
思い出せないわけでもないけれど、
はっきりと思い出せるわけでもない、
そんな大切な時間とか仲間とかの瞬間が頭の中であいまいに
積み上げられていく。で、暗く沈まない。
ぼんやりはしているものの、間違いなくそのものとして光る。
思い出と呼ばれるものの、そのよさ。
見えないから暗くなるのではなく、ちょっとした瞬間を
つないでいくだけでも結構明るい空間が光っている。
人生は誰にとっても捨てたもんじゃないと思わせてくれる
毎日のワンシーンから抽出した色たち。
時間はいつも光っていて、何かの景色をぼんやりと
とどめながら、あのシーンにもかのシーンにも見える
リアルな思い出を違った形で体感できる絵だった。
はかりしれない女子力「女たち」@東京オペラシティアートギャラリー
「一人の収集家の視点から」
本展は東京オペラシティコレクションの中から
多様な女性像を展示し、そこから見えてくるものを
浮かび上がらせる試みです。
当館には舟越保武や長谷川潔などの作品をはじめ
多くの女性像が収められていますが、
あらためて女性をモティーフにした作品という切り口で
作品を集めてみると、そこには当コレクションを収集した
寺田小太郎氏の個性が色濃く映し出されていることが
わかるでしょう。
わかる気がした。本当は違うかもしれないけど、
えらく女性に畏怖と尊敬をもっている人だなあと思った。
コレクションの女子がみんな本当にこの世のものとは
思われない怖さ。ほんとぞくぞくする、ほとんどお化け。
男子にははかりしれない神秘的な感じがびっしり。
永遠にわかりえないわなあ、女子の深遠は…
と妙な納得感はあったものの、空間としては落ち着かない。
なんで集めようと思ったのか、まったく謎。
家に置いておいたら、絶対変なものをおびきよせることに
なるってと思わざるを得ない底知れない負のオーラ。
こういう面があるから、人の命を生み出せる機能が
女子には備わっているんだとは思うけど、
ダークな、どろどろとした、血をもてあそぶ、
ある意味では超力強い女子力を全開にして
お届け中でした。まったく落ち着かない。
普通にきらきらぴかぴか可愛い女子が好みな
わたくしとしては、どうにもひかれる作品は見当たらず。
なんだか疲れた展示でした。
でも、好きな人は、本当にずばっとくるんだと思う。
まったくぶれないスタンスはすばらしいなあと感嘆。
拍手。
何も予想外のことはなく「ブッシュ」
だったら思い切りコメディにしてくれた方が
よかったなあというのが正直なところ。
すごい裏側を暴き立てるでもなく、
誰でもなんとなく透けて見えるブッシュさんの
懐の甘さをきれいにまとめてお届けした映画。
日本だったらテレビの再現になっちゃうような感じで
大スクリーンで見るには、ちょっとどうかと。
知らないこととか別にないし、たぶん選挙戦とのからみで
見ることができたアメリカだと違うんだろうが
そんなものとはまるで関係のない日本で見た
自分としては、うむ、どうしたらよいのかという雰囲気の
ある意味でははっきりとしたプロパガンダ映画。
英語がもっとわかれば、たぶん相槌とかいちいちくだらない
タイミングで「そうだなあ」とか「いいねえ」とか
「それでいっちゃお!」言ってそうで、しかも
そのライトな感じは字幕からは走者一掃されていてガッカリ。
そんな扱いかと思ったのは、ライスさん。
完全なブッシュのイエスマンで、いちいち「いいわねえ」
「そうよね」「わかるわー」といったおばさんリアクション。
横にベッタリ張り付いて歩いてて、こんなシーンばっかりだっけ?
とちょっと恣意的なものをね。感じました。
2009年6月14日日曜日
体温のなさとクール「東恩納裕一展」@美術画廊X
ちょこっと知ってただけなんだけど、固めていくつか
作品を見ることができて、はじめて概観した。
写真にしても、ペイントにしても、まあとにかく体温がない。
これは、喜んでいるのか?病んでいるのか?泣いているのか?
感情がまったく透けてみえない。不思議なもので。
だからかもしれないが、ちょっとやそっとのことでは
ぐらつかないぞというクールさにもつながる気がする。
今までかっこいいと思ったことなかったんだけど、
はじめてシャンデリアは欲しいと思ってしまった。
ただ、美しいと気持ちが落ち着くものはなく、
やっぱり現代のこの居心地の悪さを肌感覚に訴えて
再現すらしていこうという意味で、
すごくうまいものなのだろうと思う。
何一つ、気持ちが落ち着くものがないっていうのは
素晴らしく骨が折れることで、
しかも美しいという縛りがあったら
たぶん落としどころは、どうしようもないほど
難しいに違いなくて、ご飯のたべるのは大変だろう。
生きるためには仕事にならないといけない。
忘れられない。忘れない。
時代とビビッドに生きる「マティスの時代」@ブリヂストン美術館
確実に世の中の流れの中で生きていることを
いち早く感じて、自分の主義やスタイルを貪欲に
変えていける強さこそが「大成」するということだろうと思う。
唯我独尊なんか、いらない。
多くの人が進む方向にしっかりと見つつ、寄せていける。
現在のアーティストには、そんな商売っ気も必要なんだろう。
マティスとフォーヴィズムの出現
フォーヴの仲間たち
親密なあるいは曖昧な空間
色とかたちの純粋化
そんな流れで展示は展開。あまりしっかりしたマティスの絵はなく
あくまでも「マティスの時代」という看板に偽りない展示。
並べてみると、ズラリと時代を越えた画家たちが。
最近、妙にルオーが大好き。世の中は、むしろ変えたいのだろう。
特に、ルオーのエルサレムとかのゴツゴツした中に色がマーブルに
眠る感じにたまらない深さを感じる。
常設展では、
安井會太郎の超モダンなデザイン画がよかった。
ちいさなサイズが壁面に並んでいく。そのリズムに打たれた。
有名になる前「ネオテニー・ジャパン-高橋コレクション」@上野の森美術館
一緒に成長してきたよ!とか言える誇らしさに
あふれた美術展だった。育ててきたぞという自負。
ネオテニーというテーマを見つけ出して日本のアートの
位置づけを見つけ出す姿勢はすごいなあと思った。
打ち出しは、どんなことにも大事だ。
ウソでも、そういうことでやっていますと言い切った瞬間に
不思議と自分自身のスタンスもガシッと固まったりする。
そんな不思議な経験はよくある。
だから、なぜ自分の手元にこんなものが集まってくるのかを
きちんと分析して、意味づけをすることは「生きる」ことに
つながると思うし、そんなコレクターになれたら
本当に楽しくて嬉しいに違いないだろうなあと思う。
キレイすぎて、ココロ打たれるものが少なかったのは
残念だったんだけど、そういう志を感じる気持ちよさで
入った感じだった。
青山さんの刺繍絵が圧倒的に好きだった。
あとは池田光弘さんの凄まじい細密画。崩れんばかりの世界の
積み重ねにひたすらに見ていたくなった。
佐伯洋江さんもお気に入り。今回は、自分の好みをしっかり確認する会。
せっかく、その空間にいるのに「6+アントワープ・ファッション展」@東京オペラシティアートギャラリー
なろうとして、その目論見どおり有望な若手たちが
次々に生まれる様はエキサイティング。本当に。
日本も国を挙げて、何に取り組んでいるのか分かるほうが
数多くの人が幸せになれる気がする。
どっちに向かうのかをしっかりと見据えることの大事さ。
というコンセプトには惹かれたのに。
足運んだのに、トルソーとDVDだけって、どうなの?
ファッションショー見に行ったほうが、ずっとぐっと来る。
3Dで展開されているショーがある以上、
美術館でやることの意味をもっともっと考えて欲しい。
そういう意味では美術館だって、メディアのひとつなわけで
そこに来る人たちが何を望んで、そこでしか見れないものを
見に来ているのかをしっかりと感じてほしかった。
学生の課題で面白いのは、一年目はスカート&ドレスで実験的な服、
二年目は歴史衣装を、三年目は民族衣装を、四年目は自由という構成。
歴史と民族をちゃんとやることは、意外とどのジャンルをやるのでも
役立つ考え方だろうなあとしんと思った。
ショーのDVDをどさどさ見せられても、テレビを見に来ているわけじゃない。
身体がそこにいる、空間を感じに行っているのに。
設定がすべて「パラドックス13/東野圭吾」
結局、最後まで宇宙規模である意味があまりない。
とにかく人間がいなくなった東京をさまようんだけど
意外と予想外のこととか起こらないものだなあと
淡々と読み進めてしまった。
ウソみたいに谷あり山ありの難所になる都心とか
洪水が起こったときに湖のような
池が行く手をはばんだりとか
人間の力で塗り固められた世界が
すごいしっぺ返しを食らうんだけど、まあ予想の範囲内。
聞いたことあることとか見た事あることとか
どこかで聞いたことのあるシミュレーションの中を
動く人間の想いとか業とかが読めるといいなあと
思っていたんだけど、そうもならず。
東野圭吾もののドンデン返しは、ここでそれいる?
みたいなことが割りと多いだけど、今回も再び。
だからこそ、この人が描く気持ちみたいなものの
ある意味のピュアさとかが好きなんだけど、
ハイパーSFすぎて、人間くささがどんどん減ってしまったのが
残念な感じだった。連載って毎回ヒット打つの難しいのね。
知識が結びつく「天使と悪魔」
体系的な知識というやつが
なかなか身につかないわたくし。
歴史の流れの中で、街にちりばめられた
様々なヒントを駆使して犯罪をおいかける
ハーバード大教授なんて、ちょっと憧れるわ。
江戸時代の建物とかも本当は似た感じの
迷信にも近い長い歴史の中で信じられている
いい方位とか神さまのあり方とかが活かされている
らしいんだけど、まるで知らない。
街道の作り方とか徳川家の寺の置き方とかは
全部意味があるらしい。(あくまで“らしい”の悲しみ)
すごいテンポでイタリアの街に刻まれた
歴史遺物の意味とかパズルの一致を次々に
発見していき進んでいく、テンポとロケーション。
バチカンの教皇選びが題材なんだけど、
本当に観光以上にすごい場所にぐいぐい入ってて
ロケーションの力強さだけでも相当目が離せない。
ダビンチ・コードに比べると、ほどよい謎加減だったので
割と楽しめた。
2009年6月3日水曜日
見るものだれもが「チェ・ジョンファ OK!」@十和田市現代美術館
断然きれいなものをぶっちぎりで作る特権階級が
アーティストであってほしい。
同じ土俵なんかに立っても、ろくなことはない。
プラスティックカゴでタワーを作ったりとか
ビニール人形をアートだと固めて置いたりとか
どこにでもあるテレビに単色をばきっとはめて
出したりだとか、いろいろ生活の周りのものを
即座にアートに!みたいなものを見せられるんだけど
まあ、ひとことでいえば、ちっともきれいじゃない。
というか、日本人には結構当たり前なのかも。
日常がキッチュであることって。
外国の方々には特殊に見える、やたらに毒々しい
プラスティックの色とかもなじんじゃってるからなあ。
普段の生活のなかで。
あとは、商店街の中にも、ウオーリーを探せみたいに
この人のアートが隠れていて、街全部アートを目指す…
感じなんだけど、正直せつない。
目に入るシーンがまったくコントロールできてなくって
圧倒的に日常の品物が景色の中で勝ちまくるという事態。
本当は、そこだけ花が咲いたようになって
さびれた感じの商店街でも、ぱっと明るくなればいいんだけど
逆に飲み込まれて、寂しさが引き立つという結果に。
うむむ。どうにもならないなあ。仕方ない。
地方の商店街の強烈なオーラを再確認した十和田だった。
ハコが一番かっこいい「十和田市現代美術館」
なっていて、非常にいいなあ、人の輪の中心になってるなあと
感心はしたのだけれど、中にある作品がなんか全部こじんまり。
写真ばえはするんだろうけど、びしっとパンチがない。
作家が本気になるほどはお金がないんだろうなあと
少々さみしくもあり、ホワイトキューブがいくつも
つながるハコものそのものが一番存在感がある気も。
ロン・ミュエクの巨大なおばさんにどーんと迎えてもらって、
ハンス・オプ・デ・ビークの謎の薄暗い高速道路で
きつねにつままれた気持ちになって(ほんと奥行きは謎)
ジム・ランビーのカラフル床とかチェ・ジョンファの花馬とか
マイケル・リンの花床カフェとかでポップを満喫して
スゥ・ドーホーの巨大兵隊シャンデリアにうっとりする。
あとは、なんかなあ。もっとガラガラなら楽しめたかも
という不届きな感想。
作品そのものが小さいハコで用意されているので
あまりにも人があふれてると、もう人しか目に入らない。
人が集まっているのは、いいことなんだけど。
あとはおばちゃんとかが、容赦なく歩きすぎ。
見ようとしないのに、なんかがんがん人の視界を
横切っていく。しかも集団で。
かなしい。
金沢21世紀美術館の、まさに縮小版のような感じだった。
2009年5月29日金曜日
埋め合わせるもの「青山娼館/小池真理子」
でも、それで埋められるキモチをいうものもあると
きっと描きたくて、この小説は書かれたと思う。
思うんだけど、なんか悲劇を背負ってないと、
その商売にいかないという時代じゃないのが
どうにもひっかかる。肌を、身体を開くことで
満たされることがあるのは分かる。
でも、そんなに重たい重たい話ばかりではないのも
事実で、登場人物がいちいち深い悲しみを
背負っているから、この商売に身を賭してよいのだ
みたいな変なステレオタイプが、心にグサッと
入ってこなかったのが残念だ。
中で書かれている、金持ちたちの異常セックス描写が
本当にふるっていて、究極はもはや性器と性器の
ふれあいは遠く先のもので、それなしでいかに
感じきるかみたいなチャレンジになっていくのだなあと
妙な納得をしてしまった。
バスローブ着せて、そのまま風呂入らせて、
そこにバラを次々に投げ込んで、
裸を見えなくして(というか裸も見えてないんだけど)
それをみながらオナニーするという、どんな世界だ?
いったいぜんたい。
40声のモテット「ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラー」@メゾン・エルメス
そこから流れる1573年に作られたトマス・タリスの
「我、汝の他に望みなし」。
それをつつむ、メゾン・エルメスのガラスボックス。
まあ、完璧。しかも、東京銀座という地場。さらに良。
たぶん、西洋のどこで見るよりも、よい。
場所が明確でない、普通はそんな聖歌など流れない場所に、
にせものの人間に模したスピーカーが尊い歌を、朗々と歌う。
しかも、ガラスからこぼれる光に、その声が見事に溶け合って
場所感とか時代感を一挙に飛び越える不思議体験だった。
40のスピーカーは、それぞれがひとりひとりのパートを
当てはめられていて、時折斉唱になったり、突然ハモッたり、
衣擦れの音だけになったりして、合唱の輪の中で体験した、
小中学校の気分の再現のようだなあとか一瞬思った。
のだけれど。
大間違い。そんなもんではない。
人間じゃないスピーカーが勝手にワーワー歌いはじめ
黙り、ボリュームをあげたりとかいうことがあると、
なんか神様に操られているような神々しい時間が
訪れるから、めったにない感覚だった。
なんだろう?すごく生命に囲まれているようでもあり、
一方、死体に抱かれているようでもあり、聖俗乱れて、
本当に聖地のようだった。
いやあ、音がまわる、ライトボックスはたまらない。
好きなんだなあ。
取材に基づくとは「大地の子/山崎豊子」
もってしまう平和ボケ世代。
実際に起こったことを取材を通して、
話の中に封じ込めていくのが山崎さんならば
あまりにあんまりな非情な事実。
残留孤児たちが受ける差別と実際に日本が行った非道が
バランスをもって天びんにかけられているならば
神様の天びんはあまりにも残酷に、子どもたちに
苦難を強いていく。何も解らずに自分の人生が
嵐の真っ只中にさらされている1950年代。
本当に命がけだったり、本気で何かに取り組む、
瞬間に僕らはどっしりと向き合っているだろうか?
中国に吹き荒れる、歴史の流れにもう翻弄されまくる
ひとりひとりの人間。無力でどうしようもないのに
自分の人生を諦めないすさまじい想い、志。
結局は、人生を形作っていく、人の絆。
それも、血とかそんな単純なものでは語れない
生きることの本質に迫る、結びつき。
最後に「わたしは大地の子だ」という主人公の一言の
あまりにも重いタイトルせりふに言葉を失った。
信念と自分の人生を自分で切り開く力を大事にしたい。
2009年5月21日木曜日
3つあわさって「椿会展2009」
資生堂ギャラリーの椿会展。あの広さの空間は
決して広くないから、解け合うと面白そうだけど、
そこまで個と個がぶつかりあって、融合している感じも
なかったなあ。ここでしか見れない感じはない。
伊庭靖子、祐成政徳、塩田千春、丸山直文の4人で
trans-figurativeというテーマで新作を発表。
丸山さんのふわっとした色と背景が溶けていく感じは
相変わらずすきなのだけど、中でもstoryという画は
いろいろなモチーフが消えながら立ち上がってくるような
不思議な感覚で、甘ったるいけどコワイという
あまり味わったことのない印象で面白かった。
圧巻だったのは、塩田千春さん。あまりいろいろ見たことない
作家さんだったのだけれど、空間に黒い糸がクモの巣のように
張られて、その真ん中にクラシックなミシンが。
「無意識の不安」と名付けられた作品で、本当に
見ているこっちが、そのミシンの主のメンタルを
心配したくなる感じだった。よく人を見ると、
「ああ、この人はダメだ」って感じることあるけど
その状況が目の前に現れてしまうのだ。
なんかジョジョとかそういう漫画で見たことある
渦巻く不安が線でびやびやと空間いっぱいに。
気分悪くて、最高でした。
押し切る受け流す「五月大歌舞伎」@歌舞伎座
暫(しばらく)
寿猩々(ことぶきしょうじょう)
手習子(てならいこ)
加賀鳶(かがとび)
まあ、勉強中なのでまるで演目を見たところで
見所とかもよく分からない。正直でたとこ勝負。
「暫」は主役で出てくるのは海老蔵。
もう十分に準備されたところに、いよいよ登場!
という非常においしい話で、まさに花形向きの演目。
なんだか非常にオレ様で、それは歌舞伎をしていても
十分ににじみ出てて、もう鼻につくんだけど、
それでも見入ってしまうキャラの濃さ。声のよさ。
なんか動くだけで空気が振動するスゴさ。
何が悪いと、力で押し切る美しさ。
あとは、バカみたいにデカイ衣装で十分に邪魔なんだけど
それを着るに値する主役なんだ!ってことを
みんなが認識するには非常に有用な装置で
時に常識をはるかに越えちゃうことも大事なことなんだと
小さくまとまる自分を反省する。
「加賀鳶」は悪党の話なんだけど、菊五郎という人が
主役をやっていて、まあ、のらりくらりと超脱力なんだけど
心がふととらわれて、なんなんだ?この人と思ったら、
名人なんだそうだ。すごく上手な人らしい。
もうね、ひろいのに、まるで気張らない。
ちょっと言っちゃおうかな、みたいにぽろっと言葉を
発したりするんだけど、それが絶妙なのね。
客に力を受け流して、全部力に変える合気道みたいな
歌舞伎だった。最後のだんまりというらしいんだが
暗闇コントみたいなところは、残像が見えたもんなあ、
ゆっくりすぎて。
この2つの主役の違いに、大満足でした。
寿猩々(ことぶきしょうじょう)
手習子(てならいこ)
この2つを楽しむまでには
まだまだ自分の目は肥えていないのでした。
たくさん見て、心にふれるようになるといいなあ。
みどころを松竹のHPから転載。
一、歌舞伎十八番の内 暫(しばらく)
鶴ヶ岡八幡宮に、清原武衡(左團次)が鹿島入道震斎(翫雀)、
那須九郎妹照葉(扇雀)を始め、
大勢の家臣(市蔵・亀蔵・男女蔵・亀三郎)たちを引き連れて現れます。
そこへ加茂次郎(友右衛門)が、桂の前(門之助)や
宝木蔵人(家橘)、局常盤木(右之助)のほか、
自らの兄弟(亀寿・萬太郎)たちと参詣にやって来ます。
すると武衡は加茂次郎の咎を責め、
成田五郎(権十郎)に首を刎ねるよう命じます。
その時「しばらく」と声がかかり、
鎌倉権五郎(海老蔵)が駆け付けます。
やがて武衡の悪事を暴いた権五郎は、
紛失していた宝物も小金丸(巳之助)の働きによって取り戻し、
意気揚々と引き上げていくのでした。
荒事の魅力溢れる舞台をお楽しみ下さい。
二、寿猩々(ことぶきしょうじょう)
酒を好物とする猩々(富十郎)が、
親孝行な酒売り(魁春)のもとに現れ、
今日も酒を所望します。
そして酒に酔う猩々は、嬉しそうに舞い始めます。
能をもとにした作品で、重厚な色合いの義太夫舞踊です。
手習子(てならいこ)
春の野辺に、手習いから戻って来たお駒(芝翫)が通りかかり、
いろは歌に合わせて可憐に踊っていきます。
長唄ならではの華やかさ溢れる舞踊です。
対照的な舞踊を続いて上演します。
三、盲長屋梅加賀鳶 加賀鳶(かがとび)
加賀鳶と定火消しの間で喧嘩が起り、
日蔭町の松蔵(梅玉)を始め、雷五郎次(左團次)、
春木町巳之助(三津五郎)、御神輿弥太郎(團蔵)、魁勇次(松緑)、
昼ッ子尾之吉(菊之助)、虎屋竹五郎(海老蔵)が勢揃いしますが、
天神町の梅吉(菊五郎)がこれを止めて事なきを得ます。
一方、悪党の竹垣道玄(菊五郎)は、
女房のおせつ(東蔵)とその連れ子のお朝(梅枝)を、
按摩仲間のお兼(時蔵)と共に虐げていますが、
お朝が伊勢屋の主人から小遣いを貰ったことを聞き、
ある悪巧みを考え付きます。
そして道玄はお兼と一緒に伊勢屋与兵衛(彦三郎)を
強請りに出かけますが…。
河竹黙阿弥が五世尾上菊五郎のために
書き下ろした世話物の名作をお楽しみ下さい。
2009年5月19日火曜日
おっぱい不足「おっぱいバレー」
綾瀬はるかさん。
いくらなんでも露出なさすぎだろうと、がっかりする。
生徒が沸きあがるキモチにシンクロできないよ。
このおっぱい具合では。
はじめて生徒たちの前に出るところも
かわいい先生ではあるものの、
ちょっとHな先生感はまったくなく、
だからこそ妄想できるのだという向きもあるだろうが
中学生ってそういうもんじゃないだろうと。
もっと直接的だろうと。エロの感じ方が。
最初くらい、ちょっと薄手の、バストを感じるもので
なければ、どうにもならないのではと思ってしまう。
ヤッターマンの深田恭子もラフの長澤まさみも
そこらへんは映画のニーズわかって、ちゃんと
こなしてきたはずなのに、なぜ守る、綾瀬はるか。
そして、本当に感情の機微が薄い役で、
表情に動きをつけるのが難しい脚本だったのだけれど
もうその難しさに完全に置いていかれて
うむむという感じだった。どの瞬間も3つくらいは
別々なキモチがあるからなあ。
ただし、かわいいという意味では最近の
綾瀬はるかは本当に神がかっていて、
もう手に負えないほどにかわいいから
それを愛でる意味ではちゃんとしてる映画だ。
ひとりひとりの気持ち「関数ドミノ/イキウメ」@赤坂レッドシアター
誰に聞いても東野圭吾が好き!みたいな風潮。
ちょっとした超常現象があって、
そこに意外などんでん返しがあって、それを待つ。
話はすごくよく出来てる。
ドミノって、何かを望んだら、自然と世の中が動いて
その人の希望どうりのことが起こる人のこと。
ヒトラーとかもそんな人で、権力を手にするまで
何一つ非合法なことなんかしていないと
舞台中に高らかに語られたりする。日本って平和。
で、日本って平等で自由なのね、病的に。
話の筋とは別にひとりひとりの人生の方が
よっぽど気になってしまうのが最近のこの手の
舞台の残念なところ。
いかに謎解きを鮮やかに見せるかに集中していくと
どうも、ひとりひとりの人生が置き去りになる。
しかたないことかもしれないけれど、惜しい。
人が超常現象に出逢ったときに、狂っていく、
寄りかかっていく、そんなキモチの弱さが端的に
一気に描かれていて、怖かった。
周りをみてばかりいると、どうしても忘れる
自分自身の核みたいなものがある。
最終的に周りのことしか語らないのは
あまりにも悲しいし、生きている実感がなくなって
そんな人が大挙して出ている舞台に
まさに今の時代を感じたりするものだ。
2009年5月12日火曜日
それぞれの幸せの想い「Story of … カルティエ クリエイション~めぐり逢う美の記憶」@東京国立博物館・表慶館
みたこともないような造形のセンス、
うらやましくなるような細部へのこだわりに、
時代を越える人をひきつける力。
まあ、とにかくカルティエのクリエイションのすごさを体感。
バックグランドにある教養とかを感じることが出来るのが
ハイジュエリーのすごみだなあといつも思う。
見た瞬間に、客も作り手も何かのお話を嗅ぎ付けることが
出来る幸せな共犯感。
そんな、ともに何かを仕掛けることができるベーシックな
裏打ちを自分も持ちたいと願い、精進する。
ジュエリーがなぜこんな形になったのかとか
ジュエリーがなぜこの人の手元に渡ったのかとか
ひとつひとつに秘められたお話がまた濃厚で
図録をじっくり読むだけで相当楽しめる。
ワニをカルティエの工房に連れてきて
「早くしないと大きくなるわ」と言い放って、
ワニ型のネックレスを作らせた女性の話とか
家中の宝石をあらいざらいかき集めて、
全部カルティエにリデザインさせたインドのマハラジャの話。
パリの街を飛んだ飛行船乗りが発注したはじめての腕時計話。
超高級なものの裏にある豊かな人生、幸せも不幸も含めて。
にしても、グレース・ケリー超キレイ。
本当に宝石がキレイに見えて、いい展示だった。
2009年5月9日土曜日
浸って沈み込むこと「マーク・ロスコ展」@川村記念美術館
飾られるはずだった壁画が、世界中から集められて一度に15枚を
見る事ができるという貴重な機会。
といっても、それほどマーク・ロスコがっつりはまったことがなく
ありがたみの実感は少ないんだけど、とにかく行ってみて、
感じてみようと決めた。
とにかくバカでかい赤っぽい、紫っぽい画が空間に配置されている。
「瞑想する絵画」というように、その空間に入ったところで、
さして気持ちがぐらつかない。うーむ。
でも、瞑想しなればと、結構長い時間いると、くるわくるわ。
さざ波のように自然の色が見えてくる。
本当にレストランに置いてあって、フルコースなんか食べたら
ちょっと感動する空間になったかもしれない。
夕日でもあり、朝日でもあり、血の色でもあり、
岩石の色でもある。ちょうどエアーズロックとかの真っ赤に染まる
感動的な瞬間にも似た激情も秘められている。
目の前にひろがる空間がどこまでも抜けていく
静かな静かな音のない景色の感動はなかなか味わえない。
やはり、セットで飾られるべきものが集まったときには
なんか計り知れない磁場を生み出したりするものだ。
海山十題のときも、伊藤若冲のときも思った。
そういうの好きだというのもある。
画家が考え抜いたプランに浸るのは、時間がかかるが、
すべてがパズルのように動き始めたときには
とんでもない感情の揺さぶりが隠されているケースが多いなあ。
それにしても、川村。遠いけど、とんでもなく豊かな建物。
常設展もすさまじいラインアップ。居心地よし。
2009年4月28日火曜日
信念なんて報われぬ「沈まぬ太陽1〜5/山崎豊子」
必ずしも一致しないこの現代を膨大な取材から
あぶり出して、小説に仕立て上げる。
その作業は絶望的に夢なんてなかったりする
会社内の権力闘争の様を浮き彫りにしていく。
自分の信じる道を進めば進むほど
仕事の環境は厳しくなり、閑職においやられ
家族とは離ればなれになり、手の中には何も残らない。
本当に切ない。
海外赴任先から日本に戻る奥さんを見送るシーンが
あるんだけど、すごい雨の中、自分の背中がビショビショに
なって、子供を飛行機のタラップまでぬれないようにする姿を
見て、思わず名前を呼ぶのだけれど、雨が強くて奥さんには
聞こえないのね。
もう、声でないわ。切なくて。
正しいことしてんのに。
いい人、ちゃんとした人間関係はすべて手元に残るけれど
それを豊かな人生の作物だと言い切るには
あまりにも恵まれなさすぎて、現実的にすぎて、つらい。
一巻から五巻まで一気読み。
2009年4月25日土曜日
どこまでも悪は悪「Cの福音/楡 周平」
冷酷な完全犯罪術。
人間、善も悪もあるよねと思うけれど
一度すみわけた人間は意外とどちらも抱えながらなんか
生きたりしないんだなあ。ほんと。
いいもんはいいもん。
わるもんはわるもん。
淡々とくみ上げられていく悪いことするための仕掛けとか
だからこそリアルだと感じて、そういう世の中だなあと。
不思議なことにそこに嫌悪感もない。
そして、着々とお金がそのステージに集まっていくんだよな。
うん、まるで違和感もない。
中で出てきた「人に口を割らせるための凄い方法」というのが
また奮っていて、まずは麻酔で身体の痛みを感じないようにして
身体をナイフでざくっときるんだそうだ。見えるとこを。
痛くもないのに、自分の身体が割れて、そこから血がどぼどぼと
たれていくのを見るのは、もうどうにもならず恐怖らしい。
これは、怖い。目の前で身体をさばかれていくのは、かなわない。
2009年4月21日火曜日
全感覚を使え!「万華鏡の視覚」@森美術館
ハプスブルク家のプライベートコンテンポラリーアート発注もの。
持つものと持たざるものをリアルに感じる展覧会の景色。
こんなもの、家に持ってこられても困るサイズ、スケール。
ちょっと壁に掛けられるようなものはまるでなく、
いちいち身体全身サイズ。そして落ち着く類のものはなく、
感覚を全部解放して、毛穴からすら入ってくる刺激を
とにかく取り込む感じの展示。いやあ、「美」というよりは、
本当に「刺激物」の印象の強い品物がずらり。
ケリス・ウィン・エヴァンスの蛍光灯柱とか直視できないくらい
ギラギラと身体に悪そうな光を放っているし、
カールステン・フラーの「Y」という作品とかは
自分の身体のまわりを白熱灯がぐるぐるまわってて
その様子を鏡でみたりすると、どこかに吸い込まれているような
妙な浮遊感を味わえる。
ロス・カルピンテロスの壁が砕け散る瞬間を、
実際のブロックで再現すたやつなんかは、
時間が止まった瞬間を自分が動ける状態で感じることの
違和感をいやおうなく押し付けてくる。
イエッペ・ハインの映す物体とかは、ジム・ランビーの
クラクラする文様と自分自身の姿が球形の中に閉じ込められる
お得なような感覚も。
マシュー・リッチーっていう人の色使いとか素材感とか
空間への絵の張り出し方とかが好きだった。あまり触れたことの無い人。
グオ・フェンイーっていう人の描いた絵は
執念の赤ボールペン画。もうひたすら線をひきまくる向こう側の世界。
彼に何が見えていたのか気になる。
図録ではまるでダメな、行かないと不可能な体験ばかりで
美術館冥利につきると思った。
2009年4月19日日曜日
2009年4月16日木曜日
やりとりの面白さって「罪とか罰とか」
関わっているのか分からないけれど、
ホンは面白いに違いないと思うシーンは結構あって
どこ見てもいい舞台ならもっとゆるく笑いになったのに・・・
と映像になるときのやりとりを表現することの難しさを思う。
もうカット割った時点でなにもかもが分かっちゃうから
そこでこんなこと言っちゃう?
この状況で、そんなことする?
的な意外な展開というような部分がばれていっちゃう惜しさ。
見ないと気づかないんだよなあ、客観的な部分って。
あとはシチュエーションが変わっているのに
その変なセットが作りきれていないのは切ない。
なら、普通のシーンでやっても十分面白かったと思うのに
不思議な署長室みたいなのとか結構悲しい追いつかなさが
あらわになっていて、つらめだった。
成海璃子はちゃんとしてるなあ、コメディもできそうで、
もっともっとはつらつとしてくるととたんにいいと思う。
まだまだしっとりタッチで収まっているので。
2009年4月14日火曜日
もてる集客「ルズバンズ/うそつき」@王子小劇場
足が遠ざかっているんだけど、たぶんこのへんが
ぎりぎり知ってる「ひょっとこ乱舞」のスピンオフもの。
小人数でおしゃべりするお芝居。
人間性が薄いのかなあ、なんか心にこない。
いいお話なんだけどね、いろんな意味でよく出来てる。
それぞれの生き様を知るわけじゃないけど
やっぱり人の心に何かを突き刺すためには
かなりの荒い人生が必要なんじゃないかとこのごろ思う。
この人いいなあと思うと、変な意味でロクな生き方をしていない。
変な意味じゃなくてではなく、変な意味で。
頭がいい生き方しちゃうと、もう、ダメなんだなあ。
心にひっかからない。傷が残らない。
異常な数のモノを見ると、もう何もかもがどこかで見た既視感があって
あとはそこから、なにが突飛なものなのかをあぶり出す感じで
切ないけれど、もうそこは人間力の勝負で、
タレント芝居に客が入るのも、なんとなく欠けた人が
当たり前のように出てくる保険なんだと最近思う。
別に有名人みたいっていうだけでもないよなあと。
あとは、客席がもてない。これは永遠のテーマだなあ。
もてる客席にするには、何が必要なんだろう?
デートにあれでは誘えない。なんかセンス悪いみたいになっちゃう。
難しい。
2009年4月11日土曜日
最後はひとり「マイ・グランドマザーズ/やなぎみわ」@東京都写真美術館
まあ、老人コスプレなんで、最初は結構くだらなくて楽しめたんだけど
ふと「みんなひとりだ」と気づいた時点でもう苦しい。
切なさで。そうなのだ、最後はひとりになることは誰も同じなのだ。
そして、不思議なほどにその傍らには男がいない。
看取っているところも、看取られているところもない。
ポスターになっているバイク乗りのばあちゃんの隣には
若いやもめがいるけれど、それ以外は本当にびっくりするくらい
自分の足だけで立って、世界と向き合っている。
これは切なすぎる覚悟だなあとしんしんと思ってしまった。
なんか人間関係の豊かさは、50年後にはみえないの、みんな。
さみしい、あまりにもさみしい。
好きだったのは、養子をもらまくる老女の話。
次の養子を引き取りにいくときに、それまでの養子たち全員を連れて、
新しい養子のいる土地まで旅を繰り返すんだって。
なんか、ロマンチックを感じた。
そうやっていとおしさを積んでいく感じ。
あとは気になったのは、今までつきあった男全員に
ありがとうの手紙を書き、その返信を壁一面に貼り、
それを読むことで余生を過ごしている女。
その行為そのものよりも確実に返事を出してしまう男子の悲しさに
ひそかに心打たれて、情けないけどリアルって思った。
つばささんの恋人からお手紙が届きました。1年目の手紙
ということで、今日ぐらいは自分の気持ちを
しっかり伝えようかなと思います。
何言われるんだって、ビクビクしてない?(笑)
さて、何から書こうかな。
あー、前から思ってたんだけどさ、
つばさの部屋にある釘バットって何に使うの?(笑)
ってわざわざ記念日に書くようなことじゃないか。この話はナシ(笑)。
この前、喧嘩したばかりだよね。つばさの元カノのことで。
「隠し事はやめよう」
「元カノや元カレと会ってもいいけど、
ちゃんとそのことを言ってからにしよう」とか
最初に決め事をつくったのに、つばさっていちいち
「今日は友達と遊ぶ」とか嘘ついて元カノと会うんだもの。
そんなの何かやましいことでもあるのかとか不安に思うよ、誰でもさ。
つばさってさ、いつも明るくてうるさくて、
そういうところに救われてる部分もあるけど、
不機嫌になると黙るし手をつけられないよね。
最近は、不機嫌なつばさしか引き出せていない気がする。
私のせいでもあると思うんだけど。
もしかしたら、結局のところ、
つばさは飽きたのかなって思う。
元カノともそうやって別れたんだよね?
いろいろと別れた原因とかを説明してくれたけど、
きっと「飽きた」のが本当なんだろうなって思った。
私はもっと大切にされたいんだ。一年前のように。
あのころはつばさとお互いに気持ちを伝え合えてたと思うけど、
今はよく分からない。
つばさは別れたいのかなとも思う。それは今とても不安なことなんだ。
なんか、つい悪いことばかり頭に浮かぶや…。
もっと前向きなこと書くね。
ほんとはね、つばさは私にとって一番嫌いなタイプだったんだ。
うるさくて馴れ馴れしくて、いかにも不誠実そうで(笑)。
でも私みたいな奥手なタイプには、つばさみたいな人でもないと、
一生付き合えなかったかもしれない。
だから、つばさには感謝してるんだよ。
つばさが言ってくれた
「失恋を恐れるより、失恋したときに苦しむような、一生懸命な恋愛をしよう」
ってセリフが今も心に突き刺さっているから、
私はこれからもつばさを好きなままでいられそうです。
つばさもこの気持ちを覚えていてくれたら嬉しいな。
これからも決して平坦ではないと思うけど、
この一年間のように、お互いを信じて乗り越えていこうね。
それと女子高生が階段にいるとき、さりげなく見上げるのはやめてね(笑)。
ではでは、これからも末永くよろしくお願いします。
つばさがいてくれてよかった。ありがとう。
P.S.私のお母さんにまで下ネタ言うのはやめてください。
2009年4月10日金曜日
写真が日本に入ってきた!「夜明け前」@東京都写真美術館
日本に入ってきた時代に撮影されたものを集めた展示。
当時の写真は最先端技術で、写真館のそれぞれがプライドを
持って競い合っている様が、台紙のデザインなんかに見てとれる。
この台紙のデザインがびっくりするくらいフォントもデザインも
凝っていて、本当にほれぼれする。
写真技師たちのハイカラな様子が、細部からにじみ出る良さ。
あと面白かったのは、日本の観光地を撮りまくった名所シリーズ。
明治くらいのを見ると、今でも変わらない景色なのに、
いくらか山深い。そうだ、日本にはもっと木があり、森を抱えていた。
その中に、真っ赤だったり、金だったりの建物がすっと現れてくる
神聖さだったり、神々しさだったりがあったはずで、
そんな感覚を失いつつあるのは、もったいないなあと感じた。
さらに、地震現場をニュース的に撮影したものもあったんだけど、
そのつぶれかたは今も昔も変わらず、ほんとぺちゃんこ。
人間の力なんて、そんなもんだなあと思うほどに何も残らない。
あとは内田九一が撮影した明治天皇の肖像画のシリーズが
またよかった。なんか国を背負う気合いが思い切り写真に出てて、
時代を感じた。カリスマ感あったなあ、なにやら。
2009年4月9日木曜日
ハワイでうまい飯「ホノカア・ボーイ」
と思ったんだけど、結構女性がどっと入ってて驚く。
まだまだここなんだな、本当は・・・と反省。
フジテレビのオオバコ映画以外のミニシアター路線。
なんだろう?いい意味でも悪い意味でも隠せないバブル世代。
外国を特別に見て、癒されちゃうハワイに的な考え。
そんなこともないと思うんだけど、日本でも外国でも敷居がない。
おいしいご飯は高山みなみさんらしい。
おいしいご飯をありがたがって見るのも
できれば勘弁して欲しい。もうそれはテレビでいいじゃないか。
お金払ったら、おいしそうなご飯とかよりも違うものがみたい。
正直な話、ご飯はごまかしだろう。そこそこのお金で撮れるし。
ハワイの日本人老人コミュニティに若者が交わる・・・
うーん。どうにもこのまったりについていけない。
みんな、変な癒しにはまってる気がする。
無毒なものは逆に危ないと思うんだけど、精神衛生上。
2009年4月5日日曜日
クラクラしたい「ジム・ランビー展」@原美術館
空間をゆがめてほしかったんだけど
割とシックに、原美術館にはまる感じで
描かれる床の抽象模様たち。
カラフルでサイケデリックなものばかりが
印象に残る人なので、それこそがロック!みたいな
生き様な人なので、ちょっと日本に飲み込まれた?
その景色は浮世絵の海のようで、波間から見える
岩のように、コンクリートでつくられた立方体が
床に転がっている。
よくみると、そのコンクリートブロックには
LPレコードが一緒に封じ込められていて、
その曲のラインアップでもっと世界がひろがるかと
思ってアルバムのタイトルを必死に見たんだけど
その関連性も発見できず。残念。
あれはきっと色あいとかだけで
決められているんじゃないのか?
そうじゃないほうが、はるかにグッとくるのに。
音を想像するだけで、その空間にその音が鳴った様を
考えるだけで、そこにある様が大きく変われば
ぞくっとするんだけどなあ。
なんか、美術館に触発された世界観が
ありきたりすぎちゃって、ちょっとだけがっかりした。
期待感がありすぎたな。
2009年4月4日土曜日
息子とみる「ヤッターマン」
なんのなんの、食い入るように見る息子。
そして、日本人はシャイだというが、そんなのは後天性。
インド人みたいに声出しながら、盛り上がる。
そして、何より唄う。結構なボリュームで。
ガンガン唄う。ヤッターマンの唄って結構節回しが民謡っぽいから
2歳とかが唄うとくだらなくて、よい。
映画自体はずっとよく出来たパロディを見ている感じで
元ネタを知っている人は終始楽しめる。
ずっと裏笑いで、ゲラゲラ。
ああ、あのシーンがこんなアレンジに。ゲラゲラ。
ギャグも、あえてクラシックなままで、こなしてあってゲラゲラ。
そして、深田恭子の状態がすさまじくいい。
あんなに状態のいいフカキョンは、この先見れないかもしれない。
神様、もう一度だけの時に思った、この娘性能いいなあという感覚が
鮮やかによみがえる。
監督の愛情も、圧倒的にフカキョンをなめまわすように、過剰でよい。
息子のくだらなリアクション第一位は、
フカキョンと桜井翔のキスシーン。
わざわざ振り返って、キスしちゃったよ!と報告してた。
ほんと、どうでもよく、素晴らしい。
みんなが自分の人生を「孤宿の人/宮部みゆき」
結局は自分の身の回りですべてが進み、
見える範囲の人たちに助けられ、
本人も分からないうちに少しづつ大きくなっていく。
そんなことを感じられる本だった。
実際に起こっていることとは全く違う次元で
人間の成長って起こっているのね。
江戸時代の話で、江戸から偉い人が流されてくると
いう設定で話がはじまるんだけど、
なるほどなあと思ったのは、悪いことが起こったときに
何かひとつ原因があると、もう何もかもがひとつの原因に
結びついていくということ。
江戸の罪人が、厄を運んできた、あいつは鬼だみたいな
噂が流れて、たまたま起こるいろんな災難がすべて
そのお偉いさんのせいになる。
でも、よく考えてみると、そんなことないんだよなあ。
悪いことって前からあったし、たまたま重なっても
次には実は毎回、新しい時間が流れるわけだし。
そんな負の連鎖の中でも、人が前に向かって変わっていき、
新鮮な人間関係が生まれていくという面白さがあった。
2009年4月2日木曜日
自然を閉じ込める「うつわ/U-Tsu-Wa」@21-21DESIGN SIGHT
本展は、陶作家ルーシー・リィーとジェニファー・リー、
木の作家エルンスト・ガンペールによる3人展です。
シンプルな中に大胆な手法や表現を取り入れ、
現代陶磁器の流れに大きな影響を与えたルーシー・リィー。
静かで抽象的な造形の中に、独特な自然観を投影する
ジェニファー・リー。
ろくろを使い、倒木や流木からその命を取り出すように
制作するエルンスト・ガンペール。
展示空間をかっこよく作ってて、水盆の上に
浮くかのように様々な器が宇宙よろしく置いてあるんだけど
もう今となってはかっこよさないなあ。この感じ。
古い感じした。逆に。見にくいし、うつわの色も出ていない。
照明にかなり大きな負荷が来ていて、まったく発色しない。
それでも、ルーシー・リィーのうつわは素晴らしい。
苔が積み重なるかのような表面。
大理石が切り取られているような乳白。
花の一瞬の赤を閉じ込めたかのような、滅多に現れない自然の赤。
積み重なる、茶色の地層。
そんな風に自然の瞬間を、うつわの中に感じるものが好きなので
この上なく幸せな感じだった。
エルンスト・ガンペールのうつわでは、もっと単純に木から
うつわを削りだしているんだけど、こうなると日本の木工で
はっきりと同じイズムが生きていて、ありがたいことなんだけど
そんなに驚きはない感じだった。
ただ、焦げ茶に沈んだ木を刳り貫くと、その中が黄金色に見える
木肌が現れるのは、新鮮な色彩だった。
2009年4月1日水曜日
結局は感性なのか?「アーティストファイル2009」@国立新美術館
「アーティスト・ファイル」展は、国立新美術館の学芸スタッフが
日頃のフィールドワークの中で注目する作家たちを取り上げ、
それぞれを個展形式で紹介する展覧会です。昨年の第1回展に
引き続き開催する今回は、国内外で活動する9名に参加を
呼びかけました。
このたび選ばれた作家たちの年齢は30代前半から50代後半までと
かなりの幅があり、また作品の有りようも平面、立体、映像、
インスタレーションと様々ですが、いずれも自身の道を真摯に追求し、
独自の表現スタイルを獲得するに至っています。
彼らの仕事を通じて、今日の美術状況をご覧いただくと共に、
現代の作家たちがいかに社会に向き合い、どのようなまなざしを
持って制作を続けているか確認いただきたいと思います。
本展は、「さまざまな美術表現を紹介し、新たな視点を提供する美術館」
という当館の活動方針に沿って、毎年定期的に開催する予定ですが、
一方で美術情報の収集事業の一環として、展覧会に参加した作家の資料を
将来にわたりアーカイブ化し、広く社会に提供していくことも
構想しています。
つまり「アーティスト・ファイル」展は、当館が日本のアートセンター
としての役割を果たす大切な事業であり、我々スタッフの視点や活動の
真価が問われる展覧会として、総力を挙げて取り組んでいきたい
と思っています。
ということらしい。が、読むと、よくわからなくなる展示で
全く持って「現在」というところに行き着かない。
それって、やっぱり、今のコンテンポラリーアートが
陥る世界を動かさない感じにすごくはっきりと結びついているようで
悲しくなった。結局、個々人の感性にものすごく分断されているなあ。
だからといって、ダメなわけじゃなくて、すごくいいのもあるんだけど。
前の説明読むとねえ。というだけ。
参加は
ペーター・ボーゲルス(Peter Borgers)
平川滋子
石川直樹
金田実生
宮永愛子
村井進吾
大平実
齋藤芽生
津上みゆき
こんな人たち。
石川直樹の写真っていいと思ったことなかったんだけど
美術館にある富士山シリーズはよかった。
あんなに岩な感じの富士山の黒い塊はあまりなく
そこで見える山の力とかを映し出していることを感じた。
もともと津上みゆきさんの色は好きなんだけど
この人のこの色が好きっていうところまで
つかみきれないんだよなあ。そこがあれば欲しいとも
思うんだけど。この微妙な差は何なのか?
もうちょっと光感があるものの方がグッとくるのか?
何よりよかったのは、宮永愛子。
ナフタレンのいつものオブジェが
古ダンスの中に密かに眠っていて
その中でしずしずと時間を刻んで形をなくしていて
その空間が資生堂のときよりもグッときた。
もうひとつの時間を感じる仕掛けがまた秀逸で
陶器の釉薬が空気に触れて、ぴしっと音がなるんだけど
それをじっと待つのが、いい。
かなりざわざわし続けるんだけど、その中で音を待つ。
その生活への作用の仕方が気持ちよい。
こういう日常が壊れる感覚が、欲しいのだ。
齋藤芽生はアートとしては刺さらなかったけれど
セットなどの景色としては非常に参考になりそうな
ソースだった。
2009年3月31日火曜日
力はつくの?「交渉力/佐藤優」
思うのだけれど、なぜかビジネス書に「力」ものの一環として並ぶ。
ノンフィクションとして実名で外交舞台の様々を描いていて
その時々の人となりとか鋭さ、バランスなどが分かり面白い。
切れすぎてもダメになるし、愚鈍だから生き残るという不思議。
まあ、佐藤優側の目線だけで出来ている本なので、
ロシアスクール万歳、アメリカスクールくたばれ、みたいな気配はあって
そこはフェアではないけれど、信念があっていいとも思う。
何よりもドミノのように、ひとつの外交戦略が世界中に影響を及ぼし、
波紋のごとくに、うねりを生んでいく様は圧巻。
そして、国と国との間柄は、今でも圧倒的に個人のポテンシャルを
握っているということにいまさらながらに驚き、うらやましくも思う。
あとは、イスラエルという国の、政治的なあり方が非常に不安定かつ
利用されやすくしやすい、独特な形にグッときています。
イスラエルって難しい政治的な問題なんかと言いましたけど
実際は、そこひとつの思惑もあるから貫ける態度があるのだと思います。
しっかり、イスラエルのこととか追い込んで知っておきたいなあ。
政治家と官僚の、現実とドロドロと向き合いながらも
圧倒的に理想主義者的なドロドロもあるところがリアルだった。
必ずしも、勝ち負けだけでなく、カブトムシとクワガタについて
意外なことを知った。
2009年3月29日日曜日
自分のセンス「いのうえ歌舞伎・蜻蛉峠」@赤坂ACTシアター
偶然にも2回見る機会があったんだけど、なかなかねえ。
割といいとこまでいったりもするんだけど、ふとしたところで
気持ちがぐらぐらいくところまで行けなかった。
音とセリフの熱さであおっていくあたりとか、異常なくらい
自分の演出とかぶったりするんだけど、逆にそこに意識いくと
どうにも涙がひいてしまう。もったいない。ああ。もったいない。
個人的には長いおさえたセリフからどんどんもりあがったセリフを
女子に語ってもらうのが、なによりツボっぽいと改めて気がつく。
あとは、高田聖子のこの集団でのすごみ。
劇団で、そのカラーを背負う存在の役者さんがやり続けることの
不自由さと圧倒的なパワーとの狭間でしっかりと立つ、
価値に打たれた。そりゃあ、古田新太も安心だよ。
もちろん古田さんはすさまじいです。ありゃあ、鬼だ。
存在感とかうまさとか、もう常人の域を越えているもの。
かっこよく見えるもの。あれだけかっこよくないのに。
舞台の最たるもんだなあ、あのかっこよさは。
このお芝居も距離が大事だったようで、近い席よりも
ちょっと離れて全体を見れて、集団の騒ぎ立てる感じを
感じることができる方が楽しめる感じだった。不思議だ。
2009年3月28日土曜日
2009年3月27日金曜日
すさまじい深さとプレゼンテーション「杉本博司/歴史の歴史」@金沢21世紀美術館
ものを生み出す人、誰にでもあるとすると、
結構、その深さが出たりするものだと思う。
自分の惹かれてきたものたちを一同に会してみたときの
そこにあらわれる自分自身の歴史と実際に時代を刻んできた
そのもの自体の持つ歴史とがキレイにシンクロしていって
時間軸がぐちゃぐちゃになりつつ整理されていき
アートの作品へと昇華していく様は、人の人生そのものを
どうだ!とみせつけられているようで、心を揺さぶられる。
そこにある価値観の美しさとか何を大事にするのかという思いとか
杉本博司の美的センスの圧倒的高みを目の当たりにしつつ
作品そのものの見え方さえも決定的に変えるプロモーションとしての
素晴らしい戦略も感嘆する。
sea scapeに囲まれた中心に十一面観音があるんですよ。
化石と宇宙食が同列に語られる「美」の世界って。
何百年も生き抜いて生きた寺の柱の時間を感じろと
そっと立てられて、にょきにょきと部屋にあるんです。
肖像シリーズの脇にはタイム誌の表紙コレクションがあり、
小さな厨子の中には、現在作られたガラス球を閉じ込め、
死者の書も、華厳経も、月の写真も、同列に軸にされている世界。
キレイだと思う世界で、しっかりと立ち、勝負しきる。
本当に打たれた。
自分にとって、その世界はいったい何なのか?
何とよりそう人生なのか?
深いこと考えさせられる展示だった。
2009年3月24日火曜日
初恋の人からの手紙。意外と台詞とか秀逸。
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翼、ひさしぶり。
今でもデートのたびに水筒を持っていますか?当時、おばちゃんみたいだった翼をなつかしく思います。
少し上からものを言う翼が「スタイルだけは一流だな」などと失言してお別れすることになったあの日から、もう19年が経ったのですね。月日が流れるのは早いものです。
あ、そうそう、お手紙を書いたのには特に理由はないんです。ただ部屋の掃除をしていたら翼からの昔の手紙が出てきたから、なつかしくなって。びっくりさせてごめんなさい。
今振り返って考えてみると、結局翼って、私に興味がなかったんじゃないかなぁと思います。私から何も言わなければ連絡は全然くれないし、私が翼の財布からお金を盗んでも気付かないくらい。あのころ寂しがっていた私に、慰めようとして「寂しいなら寂しいと思わなければいいんだよ」なんて言ってましたね。今でも子供じみているのかなぁと想像すると少し笑いがこみあげてきます。
そういえば翼にとって初恋の相手が私だったんですよね?最初のころの翼は、なんだかキスするときも勢いありすぎて、あのときは少し怖かったんですよ。慣れてくるとやけに自信をつけていましたね。「おれうまいだろ」って(笑)。
付き合いはじめたころ、翼はいきなり「おれはおまえを最初で最後の女にするつもりはない」って言っていましたね。そういうことを平気で言えてしまうところ、今でもきっと変わらないんだろうなぁと想像すると、少し今の翼の人間関係が心配になります。
翼との恋愛から得たものが何なのかなぁと振り返ると、たくさんのものがあることに気付かされます。警戒すべき男性の見分け方などは、翼のおかげで実践的に身に付いたのだと、日々実感しているところです。どうもありがとう。
いろいろ書きましたが、私は翼が大好きでした。これからも翼らしさを大切に、あと当時本気でやっていたパントマイムの練習は続けて(笑)、いつか幸せになってください。
またいつか会いましょう。では。
P.S. 付き合うとすぐ彼女をプールに誘うらしいですね。噂で聞きました。
2009年3月18日水曜日
2009年3月17日火曜日
2009年3月12日木曜日
自分の命を投げ打って「7つのおくりもの」
そもそもプライベートを様々な形でチェックされて
品定めされたうえで、ある贈り物をされるというシステムというか
主人公の思いつきもどうなんだろう?
まあ、書いちゃうと、
自分の命を投げ打って、他の人に自分の身体をあげるんだけど
勝手によくわからない人にあげるのも嫌だから
身元調査を自分自身でやって、自分のお眼鏡にかなった人にだけ
臓器をあげるという、なんともなんともな話。
しかも、自殺して。
しかも、その動機が自分が運転ミスをして婚約者を殺してしまったから。
どうなの?背負わないで、そんな人生を歩もうとする感じ。
あと、相手を徹底的に調査するっていうのも微妙。
どれだけ偉いんだと。人間を値踏みするのって、どうなんだ?
なんか気分の悪い話だった。
2009年3月10日火曜日
不思議に景色が見えた時代「原良介展」@東京オペラシティアートギャラリー
妙なところにつながっている風に見えたりしたと
思い出した。そんな個展。
森のなかを歩いていると、いつのまにか森の木々と草との
緑がとけあって、なんだかひとつのるつぼになったりして
怖さとか不思議さとか圧倒的に他のものに囲まれる感じが
ポップに描かれていてよかった。
一瞬、高木さんを思い出したけど、空気のキラキラとか
生き物のゆらゆらが高木さんの方が個人的にはぐさっと刺さった。
言い方が悪いけれど、自分にも見える景色はいらないんだなと
個人的に好みなアートが強く提案型であることを感じた。
突然ぽっかりと開くパラレルワールドとか
ぐねぐねとうずまく先にあらわれるもうひとつの現実とか。
いつのどの瞬間を切り取ったりしたものなのかが
なんとなくでも感じることができたら、もっと楽しめたと思う。
いろいろいっても作品は好きなんだけど。
2009年3月9日月曜日
正面で出来ていた「パイパー/NODA MAP」
一回目はすごい前だったんだけどサイド寄りの席で
二回目はド正面。で、これが正解だった。
このお芝居、圧倒的にどうやら正面でできていて、群舞なんかも
照明の具合とかが非常にシビアな当たりになっているから、
芯ずれると、もうまるで良さがでない。まあ、ある意味総合芸術?
演技の方も、がぜんテンポよくなっていて、しかもお互いに安心して
セリフをやりとりしているから、盛り上げポイントでしっかりあがる
ロングランの良さが十分に出ている感じだった。
ただ、泣けないなあ、やはり。
すごさは増していた。世界観とか人が群がる集団心理とか。
でも、おそらく人が固まって何かに向かうことにリアリティがないんだな。
自分のなかで。
だから、そこに恐れとかない。葛藤も感じない。
それで心がぐらぐらしないんだなあ。
うまいなあ、うまいなあと感じる変な公演だった。
最後の2人(宮沢りえ&松たか子)のかけあいがワークショップによる
イメージコラージュみたいになっていて、それがものすごく頭いい感じで
詞として音が気持ちいいわけじゃないのも、後味に大きく響いてる気が。
よかったんですよ。
2009年3月6日金曜日
アンシンメトリー「ハルフウエイ」
もてる髪はアンシンメトリーで3Dな感じなのね。
と改めて思ったこの作品。北川悦吏子脚本&監督。
といいつつ、裏で岩井俊二がロケーションも画角も
きっと決めているに違いないと勘づく作品。
プロデューサーらしいんだけど、矢面に立たず戦う術だな。
北海道が舞台なんだけど、もう完全に画が多摩川で
地方を知らんなあとつくづく思う。根が都会。
なんか川べりの抜けがよすぎるんだな。
地方の川べりは、ミスチルのPVみたいにすがすがしくなんか
ないのだ、絶対に。
もっとどうしようもないじとっとした感じがそこにあるんだなあ。
でも、あれは地方出身じゃないと分からない
抜け出せない様相なのよ。
びっくりするくらい途中で終わるからハルフウエイなのか?
ハーフウエイをハルフウエイと間違える受験勉強のシーンに
ちょっとくだらない怒りを覚える。まあ、軽く。
ひたすらに彼氏にからむ北乃きいが思いのほかよい。
なんか適当で、フラフラしてて、でも不良じゃなくて。
その温度、今だなあと。
2009年3月5日木曜日
2009年3月4日水曜日
中年の諦めない悲哀「少年メリケンサック」
さすがに心動くところはなく、常に悪ふざけ。
まあ、悪ぶる女子もカワイイんだけど、そこまで。
やはり、大人計画の遺伝子はなかなか受け継がれることもない。
あの世界感をポップとともにお届けできる役者陣って
ある意味すさまじい選民機能だなあと思う。
何よりも思ったのは、いつまでも夢追ってても
本人たちとは関係なく残酷に時間は流れてることの切ない中年。
パンクバンド3人のどうしようもない力の入り込みと
空回りっぷりと夢なんか叶うわけないというリアルと。
そのなかで、少しだけ道がひらけるけど
それはエンターテイメントとしてははるかに飛距離が足りない幸せで
そこでよしとしようよとはっきりと現実を思うクドカンの
ふわふわしない根っこの強さとか非情さを感じた。
まあ、話としての面白さとかよりは瞬発力をただただ楽しむ
ショートムービーなので体調よくないと連戦連敗。
笑わないとセンスないもの、みたいな変な空気がよくなくて
終わった後のまわりの最初に何いうかみたいなせめぎあいが
気持ちの悪い感じだった。
2009年2月27日金曜日
たどってきた時間をしっかりとみつめる「都市へ仕掛ける建築ディナー&ディナーの試み」@東京オペラシティアートギャラリー
正しくアウトプットするとすり減らないものが出来ることがある。
そういう仕事を積み重ねてきたスイスの建築事務所の展覧会。
もうね、楽しみ方は超マニアックで、かなり体調よくないと
入り込まないと何も得ることができない感じ。
ただ、一回はまりはじめると結構いける、深淵な楽しみまで。
模型とかも何回も何回も同じ模型のまわりをまわったりすれば
そこにその建築の立つ意味が透けてみえたり。
あとは、そこから何かを変えようとする意思がみえたり、
そこから変わる予感を感じることができたり。
街は時間の積み重ねだということをしっかりと認識していて
そこにムダにクライアントの意思だけで塊感ばかりあるものを
たてたりはしない、非常にはやりをぴしゃりとやる感じのスタンスが
好感を持てるし、参考にもなった。
その時、どんなことがあっても、前の時間があってこその今だし、
今だって次につながる時間の一部だと意識できるのは素晴らしかった。
あとはディテールの細かさ。やはり、ものごとはディテールに神がいる。
レンガひとつ、ガラスひとつ、壁紙ひとつ、理由があり意味がある。
そのひとつに導かれていくプロセスこそ、クリエイティブの原点らしい。
2009年2月18日水曜日
みるとは?「ライト・インサイト」@ICC
人の目は光をいろんな形でつかまえてるし、
その方法は自分で思っているよりもはるかに
パターン化してて、世界も決まりきったものになっちゃってるんだと
今更ながらにガツンと気づかされる展示で心揺れた。
もともと光にものすごくぐらぐらしやすい体質で
だいたい好きなものは光の感じがうまくコントロールされていて
オラファー・エリアソンとかビル・ヴィオラとか
そういう光が何かを切り裂く瞬間を楽しめるものは当たるんだ。
少ないけど、非常にしびれる、体験満載で本当に素晴らしい。
ちょっと具体的にメモしておこう。
なんだろう?当たり前に自分の身体に寄り添っているものを
びりびりとはがされて、目の前にほうらと放り出されるのが
すさまじい振動を起こすんだろうなあ。
《サンキュウ―インストゥルメント》1995年
インゴ・ギュンター
暗い空間の中で発されるストロボ光を浴びることで,
体験者のシルエットが壁面に一時的に焼き付けられる作品.
人々が無邪気にシルエットと戯れ始めるという開放的な側面を
もつとともに,1945年に広島に原爆が投下された直後の閃光,
そして瞬時のうちに消えてしまった人々の残したシルエット
(ヒロシマの影)を,観客に疑似的に体験させることが
意図されている.
タイトルは,ギュンターによれば,
広島への原爆投下という惨劇があったことが抑止力として働き,
冷戦下において核戦争の危機を回避することが
できたことを意味するという.
「被爆50周年記念展 広島以後」(広島市現代美術館,1995)
にて展示.
本展では,1895年のレントゲンによる放射線の発見が,
それ以降の社会にもたらした
貢献や問題(X線写真,原爆,原発等)を振り返るとともに,
とりわけ20世紀における光を考える上で,
私たちが忘れてはならない原爆投下という事実を
あらためて喚起する.
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正直、日本に住んでいる人間からすると失礼な作品。
何を言われても、人の命が消えた瞬間を痛みもともなわずに
再現するなんて気分が悪い。
《You and I, Horizontal》2006年
アンソニー・マッコール
空間に入ると観客は,光による被膜のような
非物質的な立方体に遭遇する.
この立方体は,微細なミストにプロジェクターからの
光をあてることで実現されたものである.
壁面には,ラインによるドローイングが
見た目には変化がないほどゆっくり描かれ続け,
それが空間においては,次第に形態や空間性を変容させる
三次元の非物質的「彫刻」としてあらわれている.
観客は一種触覚的にも感じられる光の「彫刻」の
内外を自由に行き来することで,
異なる知覚体験に開かれるとともに,
「作品」の一部として「彫刻」
そして空間性に影響を及ぼしていく.
70年代初頭の実験を,
現代の機器によってインスタレーションとして実現.
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これは、すごい。時間をかけていればいるほどすごい。
自分の周りに空間がひらけていくという感覚は
実際に得ることが少ないのだけど、新しい空間認知をゲットできる。
短い時間で出ちゃう人が多くてもったいない。30分はいれる。
《PRINTED EYE(LIGHT)》1987―2008年
藤本由紀夫
体験者が自分の眼に向けて
網膜に弱いストロボ光を発することで,
文字の残像を作品として体験させるもの.
今回は「LIGHT」(光)という言葉が,
光による非物質な体験として体験者それぞれの
網膜上に知覚されることになる.
眼球に直接文字を焼き付けることで成立する,
他者とは共有できないパーソナルな体験としての作品.
藤本は
「眼をとじても,みえてしまい,やがて消えていく文字.
それは音を聴くことににている」と述べている.
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どこにでもついてくる作品というのは珍しく。
こういう人間の身体の仕組みを使い尽くすアイディアは
すごいなと思う。右みても左みても、この人の作品がついてくる。
まさにパーソナル。
《カメラ・ルシーダ:三次元音響観察室》2008年
エヴェリーナ・ドムニチ&ドミートリー・ゲルファンド
暗い空間の中で眼が慣れてくると,
中央にある水で満たされたアクリル性の球体の中に,
音から変換された繊細な光の揺らめきが
微かに見えはじめる作品.
さまざまな周波数の音波群が,
水に含まれる化学的な媒質を通過する際に生じる
「音ルミネセンス」現象
(音波の通過により冷光が発生すること)により,
直接光へと変換され可視化される.
構想段階では科学者にさえ不可能と思われた現象を,
日本,ドイツ,ロシア,ベルギーの科学研究所とともに開発.
タイトルにある「観察室」は,起きているミクロな現象が,
特定のマージナルな状況の時のみ
かろうじて可視化されるものであること,
また計測装置の精度の限界のため,
現象を科学者でさえ把握できないことを意味している.
この作品はまた,
化学と物理,球体の内と外(世界の内外),現象と観察者などを
かつてない方法でつなぎ,相互影響させていく試みでもある.
本展では,音圧他を調整できる最新ヴァージョンを展示.
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いろいろ注意も多いし、待つし、怖いしで、どうしようもないけど
まさにここでしか、しかも混んでない時にしか体験できない。
自然の中にひっそりと潜む消えている美を見つけ出す
スリルと興奮を味わえる。こんなものが隠れる余地があるというだけで
世界はまともだ。
2009年2月12日木曜日
人入ってる!!「20世紀少年〜第2章最後の希望」
伝われという熱があるんだよねえ、マンガたち。
見習わねば。と日々思いながらじっと画面を見る。
本当に徹底して原作世界を作り上げる様に感心する。
意外と出来そうで出来ないよ、タッチまでそろえていくのは。
カット割りもコマ割りに忠実にとかいうけど、そんな単純じゃない。
音(特にSE)とかテンポ(本当にあり得ないアングルにグイッといく)とか
非凡だなあ、どう考えてもとうなる。
単純にその画と音を楽しみに行けば、きっと損することはない類。
映画として元とれるかは別だけど。人生は揺らさない。
でも、そういうもあっていいじゃんと思う。
お金かけた壮大な息抜きもあっていい。
大スクリーンで木南さんが動いてて、甘酸っぱい気持ちになる。
不幸の法則という番組でさんざん一緒にドラマ撮ったからなあ。
みんな、がんばってる。前向いて。
微速前進だけど、確実にステージは広く大きくなってて、感慨深い。
力が入る。力を入れよう。
2009年2月11日水曜日
大丈夫じゃない力「大丈夫であるように〜cocco終わらない旅」
明らかに見て取れる作為とドキュメントに見せる力量に
やらせとか分からなくする意味ではこういう仕上がりの方が
よっぽど罪だと思う。バラエティ番組のやらせなんか甘い。
人格が神格化されていて居心地が悪い。そんなにいいことばっかな
はずがないじゃんと思ってたら、最後の最後に「拒食症で入院」って
それで今までのコントロールされてきた世界にリアルを持ち込もうって
ずるすぎねえかと妙に感心したりした。手法としてはすごい。
ずるいけど。
女子が勝手に世界背負う感じは巫女さんとかのシャーマンが
昔からその代表でいて、魔女なんかもその類で、生命の源に触れている分
その力にリアリティがあるんだろうなあと思う。
今のロックミュージシャンって、人を自分の言葉で熱狂させて、
そこに音楽がついていて、常人には理解されにくい格好をしていてと
今までの歴史における神がかる人の姿をよく表しているらしい。
その力を利用してお金をもうける感じのことも、ある意味宗教団体と
変わらない、後ろにいる大人たちの気配。
ピュアには泣けない、そんな感じ。
なにせcoccoはやせ過ぎで、かすかに映る唇の震えがリアルに
やばかった。
2009年2月4日水曜日
消えていく時間「シセイドウアートエッグ/宮永愛子展」@資生堂ギャラリー
宮永愛子は、衣服や靴などの日用品をナフタリンでかたどり、
次第に昇華し形を失っていく様子を見せる作品や、
糸に川や海から抽出した塩の結晶を育てた作品など、
時間の経過をイメージさせながら、儚くうつろうかたちを持つがゆえに、
鑑賞者の記憶へと深く刻み込まれていく作品を制作しています。
本展では、かつて銀座周辺に50以上も存在していたといわれる
井戸と湧水に着目したインスタレーション作品を発表します。
地下にあるギャラリー会場内に、
いくつもの水脈をつくり出し、そこに小さな島々を浮かべ、
それらを「地上に向かって放つ」ことにより、
銀座の持つ歴史と記憶を呼び起こします。
写真見た時はもっとグッとくると思って
期待してたんだけど、いまいちだった。
消えていく時間を、リアルに感じたいんだけど
ひとつひとつのモノが小さすぎたのか?
すれて小さく欠けていく様がもうひとつ迫ってこない。
あとは、水脈っていうのも期待したんだけど
パイプが天井から降りているだけで
そこに水の気配は感じないし、水脈のリアルさもない。
やはり、何かしらのモノを支えるリアルは
どうしても欲しくなる。それがないなあと。
リアルな遺跡の、風化の様を越えていく
時間の流れをアートの中に見たかったなあと思い
贅沢な望みをしていたことを反省した。
ナフタレンが昇華して、アクリルにこびりつく
キラキラした結晶は非常にキレイだったんだけど
そこは、人の手を離れた自然だった。
うまく自然を本当に利用できて、アートに引き込む技。
それが必要だ。
2009年1月27日火曜日
残酷だ「ゾウを食べるには一日一口ずつ」坂知夏@パルコファクトリー
子供を産んでしまって質が変わるとしたら
あまりにも残酷だ。だけど、もうつらい様子だった。
絵がちっともキラキラしない。
何かに不安がる女子が、必死に輝く東京ガールズの念が
こういう類の人の絵に乗り移っていたんだろう。
明らかに何かしらを、手に入れてしまったあとの
どうしようもなく力が分散していく様子は
絵からするすると光が失われていって、
そこにとどまるパステルは、もうルーティンで、きっと
彼女の目にはもうそんな色には染まっていないであろうことは
明らかなんだと思う。
残酷だ。
村上隆はがんばって受胎告知と描いたけれど、
そんなものはどこにもないし、無理がある。
自分の子供を手に入れて、自分の手の中で大事に大事にしている人が
受胎告知なんか描けるはずがないんだ。どうしたって。
人生、全部まとめてみんな100。どこで幸せ使うかだみたいなのって
妙に芯がある話で悲しいなあ。
2009年1月25日日曜日
この人の青が好きになる「セザンヌ主義」@横浜美術館
はまったことがなかった。今回、この人の青を
分かりやすく見ることができる絵があって
それがぐさっとはまって見事セザンヌ解禁となりました。
チラシにもなってるセザンヌ夫人の肖像だけれど、
これが本物の絵の青がキレイなの。ほんと。チラシにもしたくなる。
だけど、ポスターとかチラシとかは一切その色が出てないのが
悲しい。図録とかだと分からない色ってある、難しさ。
画集とか見てても、なんだろうピンとこないこと。
セザンヌというと不思議とサント=ヴィクトール山と静物画ばかりに
接してきた不幸な歴史だったよう。肖像シリーズも本物と面会は初。
この人の青は本当に深くて爽やかで透明で、よい。
でも、割と青は大事にしているらしく、大気の色だから青を混ざるの
忘れないように!的なことは言ってるらしい。
うむ、本物の色を感じるのは大事だと改めて思った。
ひとつ良さをみつけると、他の良さもみつかったりするから謎。
スザンヌの果物のごつごつした深さは、
妙にうまそうで、モノの質に迫ってる。
ポール・セザンヌ「セザンヌ夫人の肖像」
ポール・セザンヌ「ヴィーナスとキューピッド」
ポール・セザンヌ「宴の準備」
アンリ・マティス「ダンス」
須田國太郎「水浴」
ポール・セザンヌ「林間の空地」
ポール・セザンヌ「3つのリンゴ」
ポール・セザンヌ「青い皿」
2009年1月24日土曜日
2009年1月13日火曜日
2009年1月11日日曜日
贅沢すぎてもたれる「パイパー/NODA MAP」@シアターコクーン
いまいち(もちろん出来はよいんだけど)乗り切らない。
腹にもたれる感じが抜けない時がある。
隙間って大切なんだよなあ。野田さんのお芝居見てて
他の人が作ったものと違って楽しみなのは、
十二分に身体を使わされている役者の底にある人間が
むき出しになる方法がだいぶ独特だからなんだけど
今回はワークショップのアンサンブルの人たちが
その役目を担ってしまい、メインどころは自分たちの
まともな演劇に集中できたために、どうもたががはずれなかった
気がして、残念だった。何百年後の火星の話という突飛な
設定で完全新作のドラマを描き切るのは本当にすごくて、
松たか子もしっかりと心に残る声を出し、
何より宮沢りえがとても素晴らしく、あんなに自在に舞台を
生きる力をいつの間に手に入れたのかと思ったのだけれど、
どうしても心が動かず、不思議だった。全部が計算の範囲内だった。
もう少しステージ数が重なってくると、気持ちが舞台にあふれるのかも。
まだまだオペレーションな感じだったのだろう。SFだけに難しい。
説明がとにかく多いし。
女子が主人公っていうのが原因かもねえと、
同行者が言っていて、なるほどと腑に落ちる。
地球環境、食、様々な現在の問題って意外とステレオタイプなんだなあ。
現在に生きるって、そういうことなんだなあ。
面白かったんですよ、十分。
2009年1月8日木曜日
ちゃんとすること「ハンサム☆スーツ」
映画としてちゃんとしてるというよりも
鈴木おさむさんがちゃんと生きているなあと。
何を大事にしてるかがハッキリと分かることが
モノからにじみ出ることの素晴らしさは
最近何ものにも代え難いと思う。
それがよきにせよ、悪しきにせよ。そう思う。
「生き様」が何も見えない仕事はやはりさみしい。
残念と以前は思っていたんだけど、最近はさみしいよそれはと
思うようになってきた。不思議なことに。
こねたも全体のギミックも味わいひとつひとつが
その人そのものであることの素晴らしさはすがすがしい。
その人を知っているからこその楽しみ方で、
こういうモノの楽しみ方って学生演劇の時代はいつもそうだったと
変な思い出し方もして、タイムトリップだった。
北川景子が、こんなにかわいく撮れているものを
動画ではじめてみて、度肝を抜かれた。あまりにも。
ポテンシャル高すぎ。
すばらしくかわいいから要注意。

































